もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

ハラスメントという視点で考える

今まで、母が嫌い過ぎてあまり目を向けられていなかった(そこまでの余裕がなかった)ことの中で

自分さえよければいいような人とか、どことなく人を小馬鹿にするような人とか、変なとこでマウント取ってくる人とか

何かしら、モヤっとさせられたり、カチンとくる人に出会うことも多く

自分自身すごく嫌な思いをしているのにも関わらず、きつく言い返すことができず

変に我慢して、結局最後に縁を切ってしまったりすることが度々ありました。

tari97.hatenablog.com

 

嫌な気持ちになっているにも関わらず、母のように怒鳴ったり声を荒げることはどうしても『みっともない』という気があったので

面と向かって言い返す勇気がなく、SNSに遠回しに文句を上げたこともあります。

 

一番の親友だと思っていた人相手にも、結局そういう陰湿なやり方でしか自分の思いをぶちまける方法がわからず、今はもう少しやり方があったかなぁと思う反面

母に愛想をつかせた時のような諦めのような気もあったのも事実で

何をどうすれば良かったのかを問うのはもはやナンセンスなのかなぁと思わざるを得ません。

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しかし、親友とも縁が切れて数年

私自身が、そういう人間を引き寄せていたのか?と、不思議になったのが、少し毒親問題がクリアになってきた最近やっと、という訳です。

 

私はこれまでそういう人を「毒人間」と表現をしてきましたが

「ハラスメント」つまり私の場合「モラハラ」という視点で、最近考えるようになりました。

 

きっかけはこの記事を読んでからです。

www.asahi.com

小島慶子さんが、アナウンサー時代何気なくかけていた言葉が、相手にとっては「ハラスメント」となっていたのだと気付かされたという一文です。

 

かつての元親友も、外面はいいし物腰も柔らかいので、周りからも「良い人」と評される人でした。

しかし、付き合ううちに喉に何かがつっかえるような、言い表せない不快感が増し

昔は楽しみだった彼女との長電話も、だんだんと着信音を聞くだけで嫌な気分になっていました。

けれども、私が毒親育ちのせいでしょうか。

『そんなこと親友相手に思うものじゃない』と、自分に言い聞かせていた部分があったことを最近ようやく認めることができました。

よくよく考えると、既に嫌いなのに『親のことを、悪く思うものじゃない』と、言い聞かせていた頃の気持ちにそっくりです。

 

そして「モラハラ 友達」等の検索ワードで見つけた記事を色々と見て

『完全に、私たちのことやん』と、かつての私と親友との関係性を重ねずにはいられませんでした。

 

これまで、彼女にされたことや言われたことで嫌だったことも散々このブログに上げてきましたが

tari97.hatenablog.com

結局、つまるところ、彼女にされていたことも、母親にされていたこととあまり変わらなかったんだと気がつきました。

そして、私がそれを不快に感じた時点で、立派な「ハラスメント」であったことにも…

 

私が親友に対して、今思えば卑怯だったよなぁと感じたことは

こちらが拾うか拾わないかくらいの、微妙なラインで人を見下したり、マウントを取るようなことを言ったりして

私がそれに反応すると「そういう意味で言ったんじゃない」とか

「何勝手に怒ってるの?」みたいな、まるでこちらが1人で鼻息を荒くしているような扱いをしてきたことです。

tari97.hatenablog.com

 

おそらく彼女自身も、私を友達として認め楽しく過ごす反面、自分のストレス発散に私を利用していたのだと思います。

「親友だから」と、彼女は甘えていたのだと思います。

『親友だから』と、許した私も私です。

この構図、どこかで見たことがあります。

「家族やねんから」母から言われて大っ嫌いだった言葉。

けれど私も『親だから』そう思って貴重な若い時間を、何年も無駄にしました。

毒親育ち特有の優しさが、仇となるのです。

 

結局「家族」「親子」を免罪符に、いいように親に扱われてきたこと同様

親友にも「親友」という言葉で、軽く見られ、見下げられていたのだと

今になればわかります。

そうでもしないと、生きて行けない親友もまた、気の毒でもあります。

 

それでも、元親友に対して感じることで母と違うところは

最後に喧嘩になった時、まだ私は軌道修正ができるならしたかったし

またいつか、笑い合える日が来るならいいのにとも、今でも思う訳です。

 

前も書いたけど、私は母に対してはできることは全てやったから

それでも伝わらなかったから

やるだけやって、だめだったから、きっぱり諦めはついた訳で

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正直、母はいつ亡くなったっていいと思っているし、その日を夢見ているくらいです。

 

けれど、元親友に関しては、こんな形で縁が切れたままもう会うことはないのかと思うと、ふと悲しい気持ちになります。

 

私たちが好きだった漫画がドラマ化されたり

この曲、2人で聴いたら絶対に盛り上がってるいただろうなとか

この味、私は苦手だけど、きっと彼女はおいしいって言うだろうなとか

そんなことを思うと、このまま死んでしまったら悲しいなとは、思います。

 

彼女もまた、心が病んでいる人でした。

私の力では、もうどうすることもできないくらい、彼女の心の闇は深かったのです。

だからこそ、強く生きてほしいし、幸せにもなってほしいなと今は思います。

 

 

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常識的に考えて

「普通」という言葉はあまり好きではないけれど、私の母は確実に「普通」ではなかったと思います。

 

私の思う「普通」とは、一般的に、という意味も含むものの常識的に考えてという解釈の方が大きくて

世間体を大切にする毒親もまた「普通」が好きではあるのだけれど毒親の思う「普通」と、私の思う「普通」で繋がる部分が少なすぎたといったところなのだと思います。

 

相手が「やめて」って言ったら、やめないか?普通

相手が気を悪くしたのなら、何が良くなかったかなって考えないか?普通

自分がそこまで拒絶されたなら、何が相手をそこまで思わせたかな?って反省しないか?普通

相手に迷惑をかけたのなら、まずは「ごめんなさい」じゃないか?普通

 

これらは全部母に言いたかったこと。もしくは言っても通じなかったこと。

 

この場合の普通は、さっきも書いたように「常識的に考えて」という意味に等しいのですが、毒親の場合そもそも「普通」の解釈がおかしい上に、どれだけ注意や忠告を受けても「自分は間違えているはずがない」と本気で思っている節があるので上記のような「普通」にはてんであてはまらず、子ども=弱者が、常識的ではないほうの(毒親独自の)「普通」に合わせるざるを得ず、それが毒親のもとに生まれた子どもを苦しめ精神を壊す原因であると私は思っています。

 

さっきの文章が毒親バージョンになると

 

相手が「やめて」って言っても、ええやん、これくらい

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いいかどうか、どれくらいの程度か、は、された相手が決めることです。

 

相手(私)が気を悪くすると、たりは何を1人で怒ってるん?

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相手を怒らせるような言動を平気でしますが、自覚がないのでなぜ相手が怒っているのか、本気でわからないのです。

だから、自分を省みることもないのです。

 

自分が拒絶されると、あんなにしてやったのに

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これ、そもそもいつも全然関係ないところで、話の論点をずらし子どもに罪悪感を抱かせて丸め込む時の常套句でした。

逆に考えれば「これくらいしておけば、拒絶されることなんてない」と決めつけの激しいお花畑さんですね。

 

相手に迷惑をかけても、でもでもだってと言い訳

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人には「悪いと思ったら潔く謝れ」とか厳しく言っておいて、自分の失敗はテヘペロで済ませます。

謝らないし、必死で言い訳。 

 

残念ですが、毒親の「普通」がこれなのです。

 

毒親というのは、完全に「人の立場に立って物事を考えることができない」とか「良いことと悪いことを、机上論でしか考えられない」といった面で人としての回路が完全に壊れているのだと思います。

「不完全なまま、大人になってしまった」とでも言えば聞こえは良いでしょうが。

 

うちの親は、頭の回路がおかしかったのだなと思うようにしています。

 

おかしかったのだから、仕方ないよねだなんて死んでも思えませんけどね。

 

そんなおかしな家で育ってきたこと、悲しいし悔しいです。腹も立ちます。

それでも、それに気付くことで落としどころを見つけることはできました。

 

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案ずるより産むが易し

最近は、仕事を変わったりしてもわざわざ母にも報告もせず、時々「元気?」みたいなLINEは来ますが、かなり適当な返事しかしないし

正直私は母に会いたくないので、のらりくらりと予定をはぐらかしているうちに本当に母と顔を合わせることがほぼなくなってきました。

 

たまに姉と母と3人で映画に行くのも、姉と私の予定もなかなか合わないしで、おそらく今後3人で出かけることもほとんどなくなると思います。

 

「人間とは、忘れる生き物」とかよく言われるけど、最近ほんとにその通りだなと思います。

自分の中からどんどん母の影が薄くなって

もちろん、昔母に言われたことを忘れたりとか、そんなことは絶対にないけどなぜあそこまで「母」というものに感情を囚われていたのか?

今となってはそれすらもわからなくなりつつあります。

 

自分の中での「母」という存在が、こんなふうになるなんて思ってもみなかったです。

 

よく、毒親問題で「精神的距離は物理的距離から」という言葉を耳にします。

 

かくいう私も、毒親問題で一番悩んでいた頃にネットでこの言葉を見つけ、その言葉を信じてみることにした人間のうちのひとりです。

 

そして、その結果が、今のこの状態だとすれば当時の私の選択は間違えてはいなかったと思うのです(思いたい)

 

うちはたまたま、1人では何もできない親なので、物理的距離を取るのもたやすかっただけの話ではあるのですが(母親が1人で私の家に押しかけるなんてことは絶対にしないし、手続きとか役所嫌いが幸いして閲覧制限なんてものとは無縁)

 

それでもとにかく「同じ空間に母がいない」ということが何事にも代えがたい幸せだし、それによって気付くこともたくさんありました。

 

毒親ブログを書かれている、宮澤那名子さんもこのことに触れていて「実家から徒歩3分の家で一人暮らしをしている」と言われていました。

 

このことについても「3分って、全然離れていないよね」と、偉そうに言っている人がいましたが問題はそこじゃないんですよね。

ちなみに、本気で3分だけ離れることに何の意味があるのか、さっぱりわからない方は

それだけでも幸せなことなので、今後もわからないことを願います。

 

私も今、実家からは車で10分ほど離れているだけですが、多分これが徒歩1分だろうが、県外だろうが、とにかく「生活する上で同じ空間に母がいない」ということが、一番大事なのだとわかりました。

 

家を出た頃、母には顔を合わせる度に「後悔する道を選んだ」とか「裏切り者」「たりはアホ」と、こちらの気持ちを一切汲まない酷い言葉をかけられたし

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一生こうやって言われ続けるのかなと思っていましたが、さすがに「目の前に娘の姿がない」という現実を母も受け入れるようになって(正確には「受け入れざるを得ない」ですが)

結婚してからずっと、40年ほど家族の誰かしらの行動を気にかける生活が当たり前すぎた母は(そしてそれが、行き過ぎてたんですけどね、うちの場合)それを実際にできる相手がいなくなって、やっとその現実に慣れてきたようです。

 

母のようなタイプの毒親は元来頭が固いし、今までと違うことをやるのをすごく嫌がったり恐れたりします。

だから「思い描いたのと違うこと」になりそうになると、どんな手を使ってでも、どんなに汚い言葉を吐いてでも阻止しようとします。

私が家を出ることに関してはまさにそれでした。

 

そういう日々の喧嘩が嫌で、そんな母親に疲弊しながらも結局何年も律儀に付き合ってあげ過ぎたのも事実で、いくら娘でもあそこまでやらなくてもよかったことも、私自身も離れてみて初めてわかりました。

あれだけの剣幕で家を出て行くことをなじって怒鳴っていた母でも取って食いに来やしませんから(来る親がいる人もいるのでしょうけど…)

 

確かに、律儀にあんな母に付き合ってきた時間や気持ちを考えたら、いざ1人になってものうのうと生きている母を見て腹が立つこともあります。『楽しそうにしてんじゃねーよ』という気持ちにもなります。

 

ずっと家を出た時と同じように「裏切り者」とか言われたかった訳ではないけど、普通に暮らしている母に対し『何普通に生きてんだか』と、複雑な気持ちにもなるのです。

 

それでも、私も母も、離れたことで色んなことが「できるようになった」訳です。

 

たったこれだけのことが、ほんの数年前には、死ぬほど難しいと思っていた訳ですが

案外やってみると意外とできるし、慣れるんだということがわかりました。

 

初めは荒療治では?とも思ったけど、多分毒親には、これくらいやってちょうどなのだと思います。

 

もっと早くこうすればよかったと後悔することもあるけどね…

 

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