もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

言われるうちが花

毒親問題って、本当に種類が様々で、様々だから解決法も「これ!」と決まったものがなく、厄介だなぁと常々思います。

だからこそ、自分の「気付き」と「行動」がとても大事だなと感じています。

最近自分の中での意識は確実に変わってきたな、みたいな「手応え」というか。そういうものを感じています。

 

その手助けとなっているものは、ブログであったり書籍であったりしますが

最近またひとつ増えたのが、毒親育ちの方のコミュニティへの参加 です。

コミュニティと言っても住んでる場所や年齢もバラバラ、募集アプリを通してグループトークに参加させてもらうというもの。


そのグループに、数年前の、実家を逃げるように出た頃の自分とまるでそっくりな境遇の方がいます(仮にカナさんとします)

カナさんは今まさに毒母との不毛なバトルを繰り返しているようで、たまりかねてそれをグループトークへぶちまけています。

それについてはものすごく共感できるし、吐き出すことも大歓迎なのですが。

カナさんの発言を見ていて思うのは、未だに親に本気で腹を立ててバトルをしているんだなーということ。

それってまだ「わかってくれるはず」って期待が微かでもあるってことなのかな?とも思うし、カナさんの優しさもわかるから、聞いてて余計辛い(私もそうだったから)

からしたら「クソ親(失礼)に真っ向からぶつかってあげて、カナさんは優しいなぁ」とすら思う。

けれど私にも確かにカナさんと同じときがあって。でも「自分はこの段階はとっくに過ぎたんだな」という実感が、今あります。

 

もちろん、物理的に顔を合わせる機会が格段に少ないことも大きいし、過去を「許した」訳でも絶対にない。思い出して未だに腹が立つことばかり。

でも、確実に「諦め」の境地に達してきてるな、ってことに最近ふと気がつきました。

「あの母親にはこちらの話は伝わらない。マトモな人間じゃない」という確固たる答えがもう出てるので、期待もしない。だから腹も立たない。よって、喧嘩にもならない。

母に会っても本当に「他人」みたいな感覚で付き合えてることに気が付きました。

この「諦め」の感情って、便利だけどすごく怖いなって思います。これ、思われたらもう本当に終わりだろうなって。誰かに自分がこう思われたら嫌だな~と。

「言われるうちが花」とはよく言ったものです。

 

時々、昔のことを蒸し返して母に言ってみて「やっぱりな、さすが毒親ですね」みたいなリアクションを取られると確かに腹も立つんだけど、またそれが「諦め」を更に上書きしてくれる感じ。

その上書きを続けて、ついに全く期待しない「他人」ぐらいの感覚で付き合えるようになってます。

上から目線に聞こえるかも知れないけれど、カナさんには早くこちら側に来れたらいいなといつも思ってます。

これが冒頭に書いた「手応え」の1つ。

自分が毒親とのバトルの渦中にいる時は、こんなふうに外野から見ることのできる側の人間になれるなんて、想像もしてなかったな。


他は、また書きます。