前記事からの続き。
昔から「働け」「稼げ」というようなことはあまり言われず、実家に居続けるとこんなメリットがあるよ、ということだけ言われ続けていました。
なので、当たり前ですが「資格を取れ」とか「手に職付けろ」とか言われることもなく、逆に少しでも「自立」に繋がりそうなことを私がやろうとすると母は訝しげに色々と聞いてきました(自立して、家を出られると困るので)
私が家を出ることが想定されそうなことは全てダメと判断されるので、例えば学校を選ぶ時も「やりたいこと」より「近いこと」に重点が置かれたり、婿に貰えない男性は論外なので「男ばかりの兄弟の次男以下を探せ」等、恋愛についても無理難題を押し付けられたり。とにかく万事が「娘を囲い込もう」という感じになる訳です。
そんな中で、前回のSPEEDじゃないですけど「自分はこういうことをして、生きて行きたい!」というビジョンを描くって、なかなか難しいと思うんです(思いたい)
例えば「この中で好きなことしていいよ~!」の範囲が、グラウンドくらいの広さがあるのと、3帖の部屋だとどうでしょう?できることも限られませんか?
結局、子どもの人権を尊重して応援する余裕のある親と、自分のことばかり考えて何でも制限付き・条件付きの親だと、それくらいの違いがあると思うのです。
あとは前回も「なぜか子どもの能力をすごく低めに見積もっていた気がする」と書きましたが、社会人になっても「どうせアンタが頑張ったところでたかが知れてる」みたいに言われていた節があります。
結構いい歳になってから、何かを自分でやると言っても「どうせできない」「やったところでろくなことにならない」みたいに、いつも言われていました。
「だから、母さんがやらなあかんねん!」みたいに、一人で鼻息荒くしては「母さん、大変やわ」と、完全な一人芝居。
これはそういえば父に対してもやっていました。
今思えば、そうやって出そうな杭は打ち「出来の悪い夫と子」扱いして、自分の存在価値を高めていたのでは?と感じます。
だから私に対しては「社会に出ても大したことできないアンタに、婿をもらって同居して、主婦でいられる素晴らしいレールを用意してあげています」ってことだったんだろうなぁ。
ただね、人には向き不向きってものがあるし、主婦だって楽じゃないでしょ。その前に「母と暮らさなきゃいけない」ことが、一番の重労働ですけど。過労死するわ。
この、過干渉親の「子どものやる気や生きていく目標を、静かに、確実に摘み取る」という行為は、実に巧妙です。
根っこから引き抜く訳でもなく、枯らす訳でもないけど、開きそうな芽を見つけたら都度都度摘み取って、子どもはただ花も咲かせず植わっているだけの木になってしまう。
そんな木に、水や肥料だけはじゃんじゃん与えて「あなたは幸せでしょ、恵まれてるでしょ」と言ってるようなもの。
気付いた時には、葉の色づかせ方も、花の咲かせ方もわからないまま。
まさに「時すでに遅し」なのです。
理想の親をこの原理で例えるならば、水や肥料は適度にあげて、ある程度大きくなればその役目から徐々に手を引く。
嵐が来たり、雪が降ってどうしてもしんどそうなら、少し支えたり、雪を払う程度でいい。そうしてるうちに、子は自分でこうすれば花がうまく咲くぞ、次は実を成らせるぞ、と学ぶわけです。
かたや、うちの母は、あげてりゃいいだろ!と水や肥料だけあげて、嵐が来たら「危ない」と茎が折れるくらいに支柱にガチガチに縛りつけ「雪になんて耐えられる訳ないわ」と決めつけ葉を摘み取り、花も咲かない実も成らないわが子に「何で花が咲かせられないの」と言っているようなもの。
だから、同年代で自分なりに「葉を色づかせている人」「花を咲かせている人」「実を成らせた人」を見ると、コンプレックスに苛まれ、生きるのが嫌になります。
いつかは私も、花、咲かせられるのだろうか。