もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

心の矯正期間

私のブログ、見る人が見たら、昔のことをわざわざ思い出しては書いて、お暇なことで。と思うと思いますがw

これだけやっていたら、ただ漠然と感じていた『母が嫌い』の中の、何がとくに嫌いだったか、自分の性格形成にどういう悪影響があったかの絞り込みができてきた気がします。

それに伴い「母の当たり前」を私も同じようにしてしまってたことにも気が付けました。

この作業は忘れてたことをわざわざ思い出すことになるので、当時の怒りや悲しみがまたわいてきて、時々泣いたりすることもありますが、今度は私はああいうこと他人にしないようにしようと反面教師の材料にもなったので、少なくとも母がやって自分が不快だったことは繰り返さないんじゃないかと思います。

 

私の人生、90歳まで生きたとしても3分の1程度は母に左右されて終わってしまいました。

残りの3分の2で、あの母との確執を全部解消していくのはおそらく無理です。

残りの3分の2を、その作業に費やすのもバカバカしい。

なので、この「絞り込み作業」は、無駄ではなかったかも知れない。

特に嫌だったことのランキング上位から、手をつけて行こうと道筋が見えたからです。

ある程度やったら、このブログもいつか終わらせたいと思っているので…

 

私は今を心の矯正期間と思って過ごしています。

 

姿勢矯正とか、骨盤矯正とか「癖」とは怖いもので、人工的に力を加えてもなかなか正せず、気を抜くとまたすぐに戻ってしまいます。

私も猫背なので、気を抜くとすぐに背中が丸まり、整体に行くといつも指摘されます。

気がついた時に『あ、また猫背になってる』と思って姿勢を正しても、1日の大半は悪い姿勢で過ごしているはずです。

結局、猫背の姿勢の方が自分にとっては楽だし、自分で自分を律することがいかに難しいかを思い知らされます。

 

最近、これって子どもの頃からの刷り込みで「親がやること」を知らず知らずのうちに外でやってしまうってことに似てるかも?と思ったのです。

 

ある友達は、祖母も含め家族に「言わなくてもいいようなことを言っては周りを不快にさせる」傾向があったらしく、家族を好きではないと言っていました。

特におばあちゃんがお店とかでちょっと変な人がいると「ほらあれ、見てごらん!」と指をさして笑い者にするので、それがすごく嫌だ・恥ずかしいと言っていました。

が、結局その子もだんだん『もうわかったから。いい加減言い過ぎ』と呆れるくらい、店員さんやほかのお客さんを指さしては「ねぇ!あれ見て!」をやるようになりました。

一度あまりにもしつこいので(せっかく観光地に行ってるから、私は楽しい感想を言いたいのに、施設のスタッフの制服がダサいね!見てあれ!と延々言われた)

『もう制服の話いいで』と言ったら(これもかなり勇気出して言った)「ごめん」より先に「私、そんなに言ってた?」なんですよね。しかもちょっとムッとされて。

その時、いやぁ、、結構な勢いで言ってたけど、無意識だったの?って怖くなって。

 

今回、そのことを思い出して、せっかく友達は「祖母が嫌い」までは気が付けているのに「嫌い」止まりで「どういうとこが特に嫌いか?」にあと一歩踏み込まなかったから、結局その家での当たり前の刷り込みに気付くところまで到達しなかったのではないかな?と思ったのです。

家で当たり前にしていたことは、わざわざ「やるぞ!言うぞ!」って思わなくてもスラスラ出ちゃうんでしょうね。私が気を抜くと、猫背になってしまうように。

 

「変わりたい」という気持ちを持ってやり始めることは大事ですけど「矯正レベル」の話になってくると、本当に難しいです。

そして、毒親育ちは結構ガチの「矯正レベル」に該当すると思っています。

けれど、他人の力を借りる(整体に行って正してもらう)、ものの力を借りる(矯正下着とか)なども案としてはあって、微力であっても『やらないよりはマシ』と思ってやってみることが大事だと思います。

合わなければ、また別の方法もあります。

 

毒親問題で言うと、私の猫背みたいなわかりやすいことじゃないのに、まずうちの家おかしくない?と気が付けただけでも、大躍進だと思うんです。

ただそこからが、親もまだ健在だし、嫌だったことやトラウマが多すぎて何から手をつけて良いのやら…と思ったら、家や家族の『嫌いだったところランキング』を作ってみるのは有効かもしれません。

そんなランキング私も考えたくないんですけどね。

 

まあ、他の人が話す毒親あるあるを見て『他にもこんな家あるの?』と思うだけでも安心材料になりますし(少なくとも私はなりました)

このブログも小さくてもいいのでそういう存在になれたらいいなと思っています。