母は、確かに家族の為に色々やってくれたことはわかるのですが、いかんせん表現方法に問題があったので
私はどうしてもそういうところが好きになれませんでした。
昨日、実家でも少し話してて気が付きましたが
母の頭の中では
愛情をかけて一生懸命やった=少々の傲慢な態度は見逃して貰えるだろう=娘にも嫌われるはずがない
みたいな感じで、イコールで繋がってしまっているんだなと思います。
だから、いつまでたっても「あれだけやったのに」みたいな気が抜けずに
傲慢な態度だったかも知れないけど=愛情をかけて一生懸命やったから=そこまで嫌われる程のことでもないんじゃないか
って思うんだと思います。
(私が何度伝えても、=では繋がったまんまで、順番が変わる程度なんでしょうね)
私からしたら「愛情をかけて一生懸命やったとしても、あそこまで傲慢な態度取られたら、さすがの娘でも嫌いになりますよ」なんですけど。
多分、この母の勝手なイコールの鎖がほどけない限り、わかり合えることはないと思うし
多分母の中で鎖がほどけることはないと思います。
この原理で言うと
愛情をかけて一生懸命やった=少々殴ってもいいでしょ
愛情をかけて一生懸命やった=子どもの容姿貶すぐらい許されるでしょ
ってことか?って話だし
それは違うだろと思うのです。
母はどうしても「愛情をもってやってた事実」だけを認めて貰いたがりますが
表現方法にまずさがあったら、伝わるものも伝わらないし
相手が嫌な思いをした部分があったなら、そこは改めるべきでしょ
と私は言いたいのです。
「でもやった!あれだけやった!」なので(苦笑)
娘本人が『偉そうな態度が嫌だった』と面と向かって言っても「でもでもだって」ですからね。
すごく素晴らしい研究をしたけど、それを発表する方法がまずいとか
すごくいい曲をつくったけど、心に響くような演奏ではないとか
それを「でも、研究内容はいいでしょ!頑張ったから!」「でも、いい曲でしょ!時間かかったもん!」って、自分で言ってるようなものです。
いいと思うかどうかは、他人が判断することであって、自分で言うことじゃないと思うのです。
頑張ろうが、時間かかろうが、いいなと思わなかった受け手からしたら「知らんがな」なのです。
(中には「うん、内容はいいから好きだよ」と言う人もいるとは思います)
私は「母の表現方法は大嫌いだった」ということです。
その「表現方法のまずさ」が「愛情をかけて一生懸命やったこと」より勝ってしまっただけの話。
母の「愛情があった」と言うのは、所詮「やった側」の勝手な目線であって
結局、された相手が嫌と感じた時点で、伝わってないに等しいと思う。
これは、前に書いた「セクハラに似ている」の件と同じ。
伝え方に問題があって伝わらないとか、子どもが嫌な思いをしていたなら、それも含め親の力不足だと言わざるを得ないと、私は思います。
『嫌だな』と感じた事実があるのに、目に見えない「愛情」を「これくらいしたから」と、評価を求めることもまた、傲慢だなぁと思います。