もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

「許す・許さない」のもっと先へ

毒親問題では「親を許すべきか、許さなくてもいいのか」というのはよく話題に上がります。

 

私は、母を許すか許さないかで言うと、許さないです。

許さないと言うか『許したい気持ちはあるけど、許せない』というニュアンスかな。

 

育ててもらっといて親を許さないなんて大人げないとか、まるで許さないことを悪いことのように言う人もいるし(こういうこと言う人って、多分ほんまの毒親育ちじゃない気がする)「許せばあなたも楽になる」と、それが「ゴール」みたいに言ってる人もいます。

 

私も『でも、世話にはなったしな』とか思って昔は自分を責めていましたが、毒親問題に取り組む人のゴールなんて人それぞれだし、そのときの気持ちに正直になればいい。

それだけの話なんだなと思えるようになりました。

特に毒親育ちはそんな簡単なことがなかなかできないですからね。

 

ただ『許せないから〇〇する』とか「許せないこと」が何かの理由や原動力になるなら、それは危険だなと思います。

 

母に仕返しをしていた頃の私がまさにこれで、今までされたことが許せないから『見返してやる』とか『抜かりのないよう徹底的に対応してやる』とか『後悔させてやる』って気で動いてることが多くて、結局そばに母の姿かたちがせっかくなくなったのに頭の中を母に支配されていました。これは非常にもったいないことです。

 

最近、母のめんどくさいLINEは徹底的にスルーしているし、何か聞かれても答えたくないことには答えません。

それは『仕返ししてやる』のではなくて、本当に『答えたくないから』という自分の素直な気持ちに従っているだけです。

ただこれが、情けないことに、スルーしてはみるものの『どうしよう。返信してこいって入ってくるかな』と、その話題が流れるまで実は未だにドキドキしています。

 

私はずっと『母を許せるようになったときが、毒親問題が解決するとき』と思っていました。

ですが、許すか許さないかなんて、さほど重要でもないなと思ってきました。

と言うか、たかだかそんなことが人生の指標になるのももったいないと言うか…

許したって許さなくたって、もっと先を見据えて生きたいよなって思ったのです。

 

「許せばあなたも楽になる」というのもちょっと言葉が足りないと言うか、許すも許さないもどちらにも囚われなくなったら楽になりますよ、ということなのかも知れないですね。

 

私自身も理屈ではわかりますがまだまだそこまでは行けてないので、まずは自分の気持ちに素直に行動することを怖がらずにやりたいと思っています。