もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

「毒親であること」を認める作業とは

私が学生の頃なんかは、今ほどネットが普及していなかったので(いわゆる、閲覧し過ぎると「パケ死」する時代)

知りたい情報が一瞬で、いくらでも探せる今は何て便利なんだろうと思います。

なので、何でもすぐネットで調べるし、ネットで見たことをすぐ鵜呑みにします(笑)

 

そんな私ですが、毒親のことを調べ始めた頃、母の変だなと感じるところがだいぶ「毒親」の項目に当てはまっててても『いや、違う。毒親ではないと思う』と思っていました。

そう思いたかったのです。

『あんなに変なことさせられたり言われたりしていたの、うちだけだったんだろうな』と本気で思っていたし「毒親」と表現するのは何て言うか「最終手段」みたいな気があって、なかなか認められずにいました。

親をそういう風に思う自分のことも責めましたし。

 

けど、どれもこれも嫌と言うほどあてはまっていて、他にも似たような変な親を持つ人もいることもわかり、毒親認定をした訳です。

認めてからは楽になったけど、認めるまではとても苦しかった。

 

私のようなことを発言すると「親のせいにするな」と世間からは言われがちだけど

言ってる側からしたら『本当はこんなこと、思いたくもなかったし、言いたくもなかったよ』って話で

「親のせいにするな」とか以前に、自分の実の親にそんな疑いをかけないといけないことの方がよっぽど問題だし、辛いことだと思います。

 

 

母の言動は軽く見積もっても「精神的虐待」「言葉の暴力」だったなと思います。

 

親に限らず、暴力を受けて消えない傷跡が残ったとしたら、よほど、致し方ない理由でもない限り、その傷跡の責任は「暴力をふるった相手」にあるのだと思う。

母が精神的に相当私を追い詰めたことも事実で、それで心が傷付いたのなら、前述の暴力と同じ原理なんだと思います。

けれど、なぜかその責任の所在を問うことに、世間の目は厳しい気がします。

 

私は『こういうことができないのは、全部親のせいだ』ということを言いたいのではなく『なぜ、こんな風になったのか、ルーツが知りたい』だけで

その中で『やっぱりあれは母のああいう態度が原因なんじゃないか』と思うのは、ただ親のせいにして自分の態度を顧みてない訳じゃなく、原因を調べて、じゃあこれからはどうすれば良いか?を考えたいだけです。

ここの線引きができないから、親を毒親と思う自分を責めていたのではと思います。

 

 

自分にも『言われても仕方ないよな』という部分でもあれば納得もいくけど

あれだけ利口にしてたのに?

あれだけ気をつかっていたのに?

まだそんなに、何がだめだったの?

という疑問がどうしても残ります。それほど、親には従順にまっすぐな気持ちで向かい合ってきたので…

 

 

「喧嘩両成敗」ともよく言うけど

それはあくまでも互角の戦いの場合であって、明らかに力のある者が、弱者をやり込めるのはもはや「喧嘩」ではなくて「いじめ」だと思うし

私が成人してからの母とのバトルは、お互いさまな部分も多々あるかと思いますが

幼い子ども相手に、あんなに酷いことを言ったりしたりしたことはやはり「いじめ」に等しいと思うのです。

 

母が『(明らかに理不尽だけど、とりあえず)言うことを聞かなければ、育ててもらえないんじゃないか』という子どもの純粋な気持ちを逆手にとって、罵詈雑言を吐いたことは親であろうがなかろうが「いち大人として」いかがなものかと思います。

 

自分の親が毒親?と思うけどなかなか踏み越えられない人がもしいたら、とにかく自分のされて嫌だったことを思い出し、それが本当にしつけや子育ての上で必要なことだったのか?筋は通っていたのか?本当に子どもの為を思ってやっていたのか?など、ひとつずつ紐解いて行くのは有効だと思います。

 

親のせいにして終了。でなく、ルーツを探るということであれば、それはすごく前向きな作業だと私は思うからです。

 

毒親育ちの方は皆真面目で、優しい人が多いと感じます。

だからこそ、自分を責めたまま、自分の心を蔑ろにして生きてほしくないと思います。