幼少期を思い出すと、家や家族が大好きだったので
だからこそ、何で私の家族はあんなしょうもない末路(母はずっと毒を吐き、父は飲んだくれて、私は精神的に病む)だったのだろう?
何がいけなくて、どこで歯車が狂ったのだろう?と最近すごく考えます。
両親は年の差婚だったから、父は「祖父」でもおかしくないくらいの年齢でしたが
今思うと、父の方がよほど朗らかで「楽しく生きればいいやん」みたいなイメージがありました。
その分不真面目さもありましたが「楽しく、笑って暮らす」という部分では、父は長けていたと思います。
晩年、酒に飲まれて過ごした父はみっともなかったし、人当たりの良さだけが取り柄の父も信じられないくらいの暴言を吐くようになっていましたが
昔の父を思い出すと、人当たりの良い部分はもちろん「娘たちの好きなものを否定しない」ところも、好きでした。
母のように自分の価値観に合わなければ「そんなつまらないもの」と一蹴したり
そういうことは絶対になくて「へ~そうか。そんなんが好きなんか」と(本心はわかりませんが)話をそれなりに聞こうとしてくれていました。
若者の流行りを「わからん!知らん!」とか言わず「今こんなん流行ってるんやな」と話を振ってくれたり
近くに私の好きなプロ野球選手が来ると聞けば「見に行こう!」と連れて行ってくれたり
とかく「子ども好き」と豪語するだけあって、娘たちには神対応でした。
ただ、最近思うのは
おそらく、父の「神対応」はあくまでも「幼い」娘にしか、効力がなかったのかな?と思います。
娘が大人になって、だんだん話すネタがシビアになってくると、もう父の出番がないと言った感じで、思えばいつの頃からか父の存在感はすごくうすくなっていた気がします(それでも、母が留守だったりすると父とは穏やかには過ごせてはいましたが)
母は「頑張ってきた」「苦労してきた」と「母さんの言うことは間違えていない」が「だから」でくっついてしまっているので
姉が結婚のことでちょっと話し合いになったこともあったし
私は常に職のことで度々話し合い(と言うか喧嘩)にもなっていましたが
既に父の出る幕はなく、ずっと母は自論だけで一人で騒いでいたように思います。
父は「楽しく生きたい」派なので(働くのもそこそこ、お金もある分でやりくりして笑って暮らそ。ってタイプ)私がそうやって母にボロクソに怒られた後も必ずフォローはしてくれていましたが
母のスイッチが入っている最中にそういう「娘を擁護する」みたいな発言をすると「お父さんはそうやって甘いからアカンのや!!」「黙っといて!」と母に怒鳴られ、怒りの矛先が自分に向くので、仕方なく寝室に逃げるといった流れでした。
最近になって『父さん、もうちょい私を助けてくれても良かったんちゃう?』とも思いますけど(笑)事なかれ主義代表みたいな性格の父は、あのスイッチの入った鬼のような母の対応をするのが、心底嫌だったんでしょう。
でも、私の母である前に自分の妻なんだけどな。もう少し、夫である自分が妻の暴走を止めようと自覚があっても良かったんじゃないかな。
それから、母はそうやってキレて怒鳴り散らすのが日常茶飯事でしたが、昔は単純に娘が2人いたから、分散されていたのかも知れません。
これは、自分だけ嫁いで逃げやがって!と、姉を責めているのではありません。
結局、分散していた片割れがいなくなった分を全部私に押し付けた母が精神的に未熟過ぎたのだと思います。
娘への干渉が100、うち姉50・私50だったとして
姉が嫁いでいなくなった分の50は、普通は自分の趣味に回してみたり、楽できるわ♪と息抜きになったりすべきだと思うけど、自分のスタンスは変えないまんま「姉のいなくなった分50は全て、たり行き」だったのが、そもそもの間違いだったのでは?と感じます。
私も私で、その50を請け負わなくては、と
母のため・家族のためと必死で自分を取り繕ったのも間違いでしたが。(でも、やらないとまた攻撃されるので)
家族は歳を取り、かたちを変えていくものです。
それに伴い、役割も変わって当然なのです。
私の家族があんな末路だったのは
「移り行く家族のかたち」に対応しようとしなかった母の未熟さが生んだ結果、と言った感じでしょうか。