もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

「感謝」と「尊敬」の線引き

毒親というのは、自分が与える物事に関しては、どんな小さなことであってもものすごい苦労を伴った・大変だったアピールをしますが

他者から与えてもらう物事に関しては、最低限の感謝をしないどころか、ダメ出しをしたり難癖までつけてくるという始末です。

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だから、毒親の常套句の「あれだけしてやったのに」の類の言葉が出るのだと思うし

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相手の気持ちなんて無視して、子どもの心に図々しく踏み込むし

子どものやる気をそぐようなことを言ったり、やりたいことをやめさせたりも平気でできるのだと思います。

 

昔から母には感謝の強要をよくされていましたが

私は親とはみんなそういうものなのだと思っていました。

確かに高校生くらいまでは自分一人では何もできなかったし、整った環境で暮らせることには純粋に感謝し、そういう暮らしをさせてくれる母を尊敬もしていました。

 

しかし子どもは成長するので、だんだんと親と子の役割が変化するのは当然のことで、親側も子の成長に合わせて、考え方やビジョンを変えていく作業が必要なのだと思います。

しかし、うちは両親ともに向上心がなく、変化を嫌うタイプだったし

特に母はいつまでも娘のニーズに合わないことをやり続け、中高生の頃には感謝されていたことを20代・30代を過ぎてもなお、同じようにやっては「感謝しろ」と強要してきました。

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幼い頃の育ちのせいで、承認欲求が病的に強い母にとって、感謝の気持ちを子どもが表現することはまた「尊敬されること」とも等しかったのだろうと思います。

 

母の「感謝せぇ」の中には「敬え」という気持ちもあったと思っていて

子が親を敬うということはつまり、母の大好きな「お母さんの言う通りにしなさい」と、大義名分で言える後ろ盾にもなっていたのではないでしょうか。

 

だから、もうあとは自分でできるよ、と娘が巣立って行くことは、母にとってその図式が崩れることでもあり

私が20代を超えてから、急に「親に感謝しろ」という類の言葉を異様に発するようになり、私が家から出て行くのを阻止することに異常な執着を見せることに繋がったのではと思っています。

 

日本には「親を敬うこと」が素晴らしい!という考えが今もなお根強く残っていますが、これも今の母親世代以上の人達が作った、都合のいい勝手なルールに過ぎないと私は思っています。

例えば芸能人とか、職場の人相手なら、好き・嫌い、合う・合わない等を表現することに何のお咎めもないのに

なぜ、親にだけはそこまで負の感情を抱くことについてはタブー視されるのでしょうか。

親だって人間だし残念ながら尊敬に値しない親もいます。

 

そして、子に嫌われる親に限って「親を敬うことは素晴らしい」という世間の考えを免罪符に、偉そうにしますね。

 

「感謝」とは本来、する側が自然にしたいと思ったときにするものです。

「感謝しなさい」『はい、します』というものではないのです。

 

また、感謝しているからって、尊敬に値するとは限りません。

 

事実、私は母に対して、先ほども書いたように整った環境で暮らさせてくれた、あくまでも物質的なことには「感謝」はしていますが

母の性格や考え方、人への態度などどうひいき目に見ても母のことを「尊敬」は、していません。と言うか、できません。(昔はしていたけど)

 

例えば、職場で上司なり同僚なりに「ありがとう!」ということがあったとして、その相手を「尊敬してる!」は、必ずしもイコールでは繋がりませんよね。

そして、繋がらないことを誰もおかしいとも思わないし、非難されるようなことでもない。

でも、私の母はそれを「ありがとう」止まりでは、許してくれなかったわけです。

「感謝してるんやったら、尊敬せんかい」⇒「尊敬してるんやったら、言うこと聞かんかい」なのです。

(もちろんこれは、すごく極端な例として挙げたので

感謝できるから尊敬できる同僚や上司等もいますけどね!)

 

私も長年、ここを混同していたのではないか、と最近気がつきました。

 

ここをしっかり切り離して考えれば、子が罪悪感を抱くことのおかしさに気付くことができるのではないでしょうか。

 

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