もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

認めることへの嫌悪感

昔のことを思い出していたら、自分自身に対して『よくあんな家で暮らせてたな』とか『何であんなこと、嫌々やってたのだろう』と思うことがほとんどで

今もう一度やれと言われても、死んでも無理!と思うのに

あの家で30歳前まで暮らしていたことも紛れもない事実で

人間、渦中にいる時は、それが当たり前すぎて「嫌と感じている自分」からも目を背け

案外なんとなく暮らせてしまうのも、毒親問題の恐ろしいところだというのも、これまで書いてきました。

 

我が家では

①食事がおいしい

②生活水準がそれなりに高い

③姉妹を比べることはしない

部分だけは「ここだけはよかった」こととして、感謝はしているということももう何度も書いてきました。

 

その他に、時々ふと『ああいうことも(親らしいことも)してくれてはいたよな』と思い出すこともあるのだけれど

何かそれが大嫌いな毒親を認めているみたいな気分にもなって、それが嫌で

『それくらい、素直に感謝すればいいのに』と思う自分と

『許せない、認めたくない』と思う自分の間で葛藤が起きます。

それが、最近少ししんどいです。

 

これをなぜ思ったかというと

 

最近、ある夢を見ました。

もちろん、母親が出て来たので起きても頭痛が酷く、1日体調が悪かったです(笑)

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夢の中では、私はもう実家を出て今の家に暮らしているのだけど、父も生きていて、母は昔の姿で

ある日私が実家の近所のスーパーの駐車場に車を停めて友達と遊びに行き、そのまま友達の車で実家に直接送ってもらったため

翌朝、そのスーパーまで車を取りに行ってから、自分の家に帰らなければならない、という状況でした。

(実際には、そんなこと絶対しないのですが)

 

実家の2階の、元々の自室に一晩泊まり(これも今は絶対にしません)朝になって母が階段を上がってきて

『何て言おう?』『〇〇(スーパー)に車置いてきたって言ったらまたキレられるかな?』と、言い訳を考えながらビクビクしていました。

 

ちなみに、私はこの「母親が2階に上がってくる足音」が相当トラウマになっているようで

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今でも時々うっすら寝ぼけている時なんかに、マンションの共用廊下の足音がだんだんと部屋に近づいてくると、朦朧とした意識の中でも『やばい!起きなきゃ!』と、焦って、目を覚ますことが時々あります。

 

 

夢の話に戻りますが

母が部屋に入ってきて「〇〇(スーパー)に車置いとん?送ったろか?」と言われました。

 

その後、目が覚めたときに

実家にいた頃、確かにこういうこともよくしてもらったなと思い出していました。

思えば、実家は車がないと不便な場所だったから『送って』と言えば、両親のどちらかは送ってはくれてたなぁとか。

 

昔、夕方から雨が降り出し、傘を忘れた娘が駅まで迎えに来てほしいと連絡をするも

お父さんは既に酒が入って運転できない、お母さんは免許がなく、結局その娘は駅からずぶ濡れで帰ったという話を聞いた母が

「あそこの家はな、娘が傘を忘れた日に、父親が迎えに行ってあげへんかったんや。可哀そうに。母親も、免許ないしな。そういうことを母さんしたくないから、頑張って免許取ったんや」みたいな話をよくしていました。

 

昔私が働いていたバイト先でも、台風で大雨が降った時があって、同僚と一緒に「帰れるかな?」という話をしていて

私は車通勤でしたが、同僚がバイク通勤だったので『送ろうか?』とも声を掛けたのです。

けれど「多分家族か彼氏が来てくれるから、大丈夫」との返事だったのでその日は先に帰りました。

翌日『昨日帰れた?』と聞くと、彼氏は都合がつかず、家に居て、迎えにも来れる状況だったのに結局家族は来てくれなかったみたいで、暴風雨の中バイクで何とか帰ったと言っていました。

おそらく、私がその同僚の立場だったとしたら、あの暴風雨の中、自力で帰らせるようなことは私の家では100%、なかったと思います。

 

 

なので、確かにアクセスの悪い場所に住むなら、娘を送り迎えすることも責任のひとつとしては当然かな?とも思うけれど、世の中にはそれをやらない親だっている訳で

 

それでも、そこまでしてくれた過去があっても

私の「ここだけはよかった」リストに載せたくない!と思ってしまうのです。

 

自分でも大人げないよなぁと考えていたのですが、確かに送迎はよくしてくれたけれど

何となくすんなり認めたくないのは、母の機嫌次第で、対応が変わっていたからかもしれません。

 

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私が選んであの場所に住んだ訳ではないのに、母は自分がめんどくさい時とか

嫌々迎えに来た時は「あんたのために、わざわざ来てやってるねん」感がすごいので

結局これも「やってもらった事実」よりも「表現方法のまずさ」が勝ってしまったいい例かもしれません。

そんな風に恩着せがましく表現しなくたって、十分子どもは、ありがたいとか申し訳ないとか、思っているのにね。

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結局、夢の中では父に送ってもらっていて、昔からそれはよくあった光景で

目が覚めて、ああいう親らしいこと、してたことはしてたんだよなぁとも思うんだけど

それを、更に認めることにすごく抵抗があるのです。

 

その理由を考えると

『世話になってるし…』『言うても、親だし…』の繰り返しで、結局10年ほど神経をすり減らしながら生きた、無駄な過去があるから

そういう小さなものでさえも、母親を「擁護する」みたいなことにすごく抵抗があるのだと思います。

そうやって、自分の心を騙し騙し生きて、結局10年近くを無駄にしたんじゃないか!

そういう「情状酌量」みたいな気持ちが、今のように平和に暮らす邪魔をしたんじゃないか!!

と。

 

例え母が「あなたのために」と言っても

『本当は嫌だった』『何も、嬉しくなかった』等と思うことや

やってもらったことに対してありがたいと思わないことに罪悪感は抱かなくなったけど

「ありがたいと思わないこと」に躍起になってる気もして『自分って、やっぱり幼稚すぎるのかな』とか思ってしまう訳です。

 

『今までは認めてなかったけど、あれも、ありがとう』と、自然に、素直に

思える時まで無理しなくてもいいだけの話なんだよな、とも思うのですが…

 

こういう葛藤を、みんなはどう処理しているのだろう。

 

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