昔から、子どもが幼くとも容赦なく怒鳴り散らしていた母なので
時々母に優しい声掛けなどをされると『どういう風の吹き回しか?』と勘ぐってしまうことも度々ありました。
母が時折見せる異様な優しさ…
あれは一体何だったのだろう?と、考えていました。
このブログを始め、母には「共感能力」というものが全くないことにも気が付きましたが
逆に「自分が親からされて嫌だったことを絶対に娘にはしない」と、自身の経験を反面教師にしていることもわかりました。
それが、お金・食事・家(とくに個人の部屋)・姉妹で格差をつけない
ということのみだったようです。
共感能力がない分、母は「自分が親にされて、嫌だったこと」は、絶対に娘にやらない!と決めていたようですが
残念なのは、それが度を越していたことと娘の気持ちはまるで無視したことでした。
母が親にされて嫌だったことを同じ熱量で娘も本当に嫌がっているか?
良かれと思ってやっていることが娘への重荷にはなってはいないか?
この「自他との境界線を引けなかった」ことが、母の最大とも言える失態でした。
母はよく「母さんだって親にきつく言われて来たわ!」と言っていて
じゃあ何で同じことを娘にやるの?とずっと不思議でしたが、母はそこは親にされても気にならなかったからでしょう。
耐性は人それぞれなのに「自分が嫌だと思わないから、娘たちも(親に偉そうに言われたって)平気」と思っていた、この回路がはっきり言っておかしいのです。
昔、真冬に外で遊んで帰って、手を洗おうとお湯を出そうとしました。
お湯は母に一応出していいか、きいてからだったと思います。
お湯になるまでしばらく待っていると「ちょっと待ち」とキッチンから母の声がします。
『やっぱり怒られる?お湯だめなんじゃ…』と思っていると
電気ポット(片手で持てる、昔ながらのやつです)を持った母が洗面所にやって来て
「待ち、これで洗い!」と、洗面台に水とポットの熱湯を混ぜて適温のお湯を張ってくれた事がありました。
「手、冷えたやろ。これでゆっくり洗えるやろお~」と、母は笑っていました。
私はあまり母にこういうことをされた記憶がないから、ものすごく驚いて
(普段は「子どもは水で洗とけ!」みたいな感じなので)こういうたまに出る母の優しさにドギマギした事が何度かあります。
その数年後、阪神・淡路大震災があり断水した時
今ほど食器にラップを巻くとか災害時の知恵もないので、食器を少なめに使ってタンクにくんできた飲用外の水で洗い物をしていました。
ゴム手袋をするという知恵もなく、手がかじかみそうな中皆で交代しながら洗っていると母がいきなり「もう嫌!」としゃがみこみました。
具合でも悪いのか?と思うと「手が冷たい」と泣きそうに訴え(みんな冷たいです。私も姉も堪えて、黙って洗っていましたが)
すると父が「母さんは座っとき」と言って、私と姉と父で食器洗いをしました。
1月17日が来る度にそのことを思い出してはいたけど、母が毒親だったと認識してから深く考えてみると
おそらくあれは母の「幼い頃、極寒の中でもかじかみながら手洗いや歯磨きをした」ことが
一種のトラウマだったのでは?と思うようになりました。
結婚をして溢れんばかりのお湯を張ったお風呂に浸かった時、嬉しくて涙が出たというような極貧の生活をしていた母ですし
母の実家にも行ったことがあるので、家の古さから「水回りのことで相当な不自由を強いられてきた」事は容易に想像がつきます。
確かに昔から節約にはうるさかったけど「手が冷たいのは我慢しなくていい」とか
母独自のルールがあり、真冬に歯磨きや洗顔をお湯でやっても怒られませんでした。
更に寒さの厳しい日にだけ「今日は水で手洗いするの寒そう!」という母の短絡的な回路が起動して
洗面台に適温の湯を張るというような、時折見せる異様に優しい行動となり表れていたのではと思います。
(寒い日以外にもこういう「急に優しすぎて怖い」みたいな事が時々あったのは大体こういう理由だったのだと思う)
母のことをずっと「共感しようとしない」「寄り添おうとしない」人間だと思い
何度も母にも話をして衝突してきましたが、母のこういう偏った優しさや行動を思い出すと
「共感しようとしない」のではなく「共感できない」
「寄り添おうとしない」のではなく「寄り添い方がわからない」
人間だったのだろうなと思います。
家を出てすぐの時は話し合いをすればわかるのに!みたいに母に何度も言われ、実家から逃げたことを責められましたが
この「しない(しようとしない)」と「できない」の違いに気が付いてからは
『いやいや、話をしても絶対にこの人がわかることはない』という確信にも繋がり
罪悪感を抱くこともなくなりました。
一種の諦めのような気持ちですけど、気付けてよかったとは思っています。
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