たまに電話がかかってくる友人の娘さんがもうすぐ高校受験なので、もう高校は決めたの?と先日少し話をしました。
「まだ決めてないけど、○○高校の前を通った時に校舎が綺麗やからいいなぁとは言ってたわ」と。
上の子だから受験も初めてで「どうしようかな」といった感じでした。
その高校は私の通っていた公立高校の近所にある私立高校で、主要駅への直通バスも出ているし部活動なども盛んで、とにかく何に関してもリーズナブルな(悪く言えば全てが貧乏くさい)公立通いの私からすると羨ましい要素がたくさんありました。
私は元々勉強が嫌いだったし、美術系の高校の推薦に落ちてしまってそれまでまともに受験勉強らしいこともしてなかったから、家からも近くで確実に受かるレベルの公立高校に行っただけでした。
別に行きたくて行った高校でもなかったけど、かと言って推薦で志望していた所以外行きたい高校もなかったから
とりあえず「公立(お金がかからない)」「距離的にダルくない」「そんなに頑張らなくても勉強についていけそう」だけで高校を選びました。
そんな気持ちで決めたので高校の3年間は人生で5本の指に入るくらい楽しくなかったのも当たり前かなとは思うし、多分あの精神状態ではどこに行ってもあまり変わりはなかったので後悔もしていません。
当時は少しパニック障害っぽいところがあったので(今も特急や急行などが苦手であまり乗りませんが当時はもっと公共の交通機関に乗るのが苦手だった)バス1本で通えるあの学校は私にまぁ合っていたのかな。
でも、最近時々思うのはもう少し「なんとなく楽しそう」とか「ワクワクする」みたいな気持ちも大切すればよかったかなぁということ。
私の受験当時、自分の入学する年から高校名も制服も一新される私立高校があって、ある友人が「新しい制服がかわいいからそこに行く!」と言っていて驚きました。
当時の私はそんなことで学校を決める選択肢なんてなかったから『ありえへんやろ』と思ったけど、大人になった今思うのはそういうことって案外大事なんじゃないかなということです。
例えば
制服だって毎日袖を通すものなので心がときめく方が良いと思うし
校舎だって毎日過ごすのだから自分が良いなと思える方がより良いと思います。
「絶対にこれ!」でなくても「より良い」がいくつか集まるだけでも、心は明るくなるものです。
きっと私は若い頃にそういう言葉では説明しづらい本能的な部分とか第六感的な感情で生きることをあまりにもしなさすぎたな、と。
と言うよりこれもまた「やり方がわからなかった」が正しいかなと思いますが…
大嫌いだったあの高校で、元々自分が選択した現実的なこと以外で何とかかんとか『ここはマシやな』と思って過ごせたのは、靴とカバンが自由だったことくらい。
入学するまでそんなことどうでも良かったけど、いざ通学し始めると「スニーカーいいなぁ」とローファー指定の学校の友人に言われたり、中学生みたいな指定カバンの高校生を見ると『あれは気分が上がらんやろう…』と思うことがあって
ファッションが好きな私には、靴やカバンをああでもないこうでもないとコーディネートすることが案外救いになっていたよう。
小さなことですが、きっとそういうことって大事なんだと思います。
なので、友人にも
『偏差値ももちろん大事やけど、制服が可愛いとか校舎が綺麗とかそういうことも大事やと思うで。やっぱりそこに通う自分が好き!とか心がちょっとでもときめいたら、しんどい時でも頑張って行こうってなるしな』と伝えました。
私はずっと自由に気ままに生きて来れてると思っていたけど、結局母という他人軸で生きることでそういう「なんとなく好き」みたいな気持ちをずいぶん長い間、蔑ろにして生きてきました。
それに気がついたのもつい最近のこと。
だからこれからの人生は少しでも自分のそういう気持ちを見逃さず無視せず
どんなに小さな声も拾って生きて行きたいと思います。
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