月に1回、ネイルへ行きます。今の私には時々痛い出費でもあります。
けれど、これをやめるつもりはなくて、何かを節約してでも続けようと思っています。
昔、何でネイルなんかするの?という男性からの質問に「ある種の精神安定剤だ」と答えた方がいましたが、わかるような気がします。
毎日、目に入るものがキレイだと、やっぱり気持ちも上がります。
それに加え、色やデザインを考える時間も楽しいし、施術中の会話も楽しみのひとつです。
ほかにも、担当美容師さんも話が面白いので、毎度楽しませてもらっています。
爪や髪がキレイになって、+話も楽しい。私にはすごく大切な時間です。
そういうことを最近考えていた時、母はこういうことの相手を全部家族に求めようとしていたんじゃないかなぁと感じました。
会話が楽しいということには「共感」が大きく関係している気がします。
今のネイリストさんは私の姉と同年代なのと、妹さんが私と同い年なためすごく話が合って、とくに「時代」の話はおのずと盛り上がります。
「あったあった!」「なつかしい~」と言うだけでも、すごく楽しい。
姪のように20年くらい後の世代を生きる子の話も確かに面白いし、勉強にもなるけど「共感」という面で見ると、難しい気がします。
実際、一回り以上年下の人と話していた時『この曲知ってる?』「あーオカンが聴いてたな」とか、私の話すことが何でも「オトンが・オカンが」だったことがありました。
仕方ないことなんですけど、やはり「共感」という部分では全く満たされないなぁと感じました。
もちろん、年代以外にも「共感」するジャンルは様々ありますが(ママ友だったり、趣味だったり)
多分、母はそういった「共感」を、ほとんど家族に求めていたような気がします。
母は、外部の人をまるで「敵」かのように話し、何でも家族!家族!という傾向がありました。
元々世界が狭く、趣味もないので、まず友達がいません。
先ほどのように同年代で盛り上がれる友達や、ママ友、趣味友のような「共感し合える相手の使い分け」という概念が、母にはなさすぎたなと思います。
私の中で「友達」まで行かなくても、ネイリストさんや美容師さんは「楽しいお話してくれる、共感し合える相手」のカテゴリ内にいるんですね。
まぁ、むこうは営業もありますけど、私が嫌な気分にならなければそれでOKと思っています。
帰る時の『あ~たのしかった!』という気持ちは、気の合う友達と話したあとのような気分と似ていて、また明日からがんばろ~という活力にもなります。
そういう、本来使い分けるべき人間関係を母はほぼ全て、家族に求めたのだと思います。
悪い事ではないけど、さすがに無理があると思います。実際、無理でしたし。
母は特に「かまってちゃん」なところがあったので余計かも知れません。
「共感」を求めるところまではまだいいとして「無理に理解させようとする」「相手が理解できないことを怒る」ことが、母の嫌いなところでした。
母の言いたいことに共感できそうな人を探そうともしないで、家族にばかり共感を強制し、伝わらないと怒る…それはあまりにも傲慢じゃないかなぁと感じます。