母も、昔学校が嫌いだったらしく、よく「嫌だった」と言っていました。
仕事も、ただ「金を稼ぐ手段なだけ」と、過剰に教えられてきた気がします。
母からすると、学校も仕事も「辛い」「楽しくない」のが当たり前。
だから「根性」だけで、何とか乗り切れと教えられてきたのだと思います。
昔から、私も学校は苦手でしたし、嫌いでした。
やりたくないことも、足並みを揃えてやらないといけないし、苦手なことにも挑戦しないといけません。
1人ひとり、体の大きさだって違うのに「たくさん食べましょう」とまずい給食を無理矢理食べさせられるし。小食の私には給食の時間は苦痛でしかありませんでした。
人の目が人一倍気になる性分なので心から行事を楽しむこともできないし、怒られるのが怖いので先生の一挙手一投足にいつも糸を張りつめている感じ。
だから、不謹慎だけど『学校が火事になって燃えてしまわないかな』とか『先生が学校に来れなくなるいい方法何かないかな』と、わりと真面目にいつも考えていました。
皆「休みたい」とか「だるい」とか言うけれど、何だかんだ楽しんでいるし、どうもここまで学校を重荷に感じている同級生が周りに居る気もしない。
何でこんなに、嫌で嫌で苦しくて仕方ないのか、不思議でした。
しかし最近、この異様なまでの学校嫌いは、多少母の洗脳もあったのではと思っています。
子どもの頃の親の言動って本当に大切だなぁと思うのですが
やっぱり家族に「学校なんて基本クソ」みたいに言われていると、学校はとんでもなくつまらなくて怖い場所なんだと、子どもは思うのだと思います。
その上、母はとくに「先生」というものを異様にこき下ろしていたように思います。
いつも「先生って、働き出してから " 先生 " しかやってきてないやろ。だからあんな人らが人生において大事なこと教えれるわけない。勉強だけ教わったらええねん」的なことを言っていました。
先生になるための「お勉強」はしてきているけど、人生の「お勉強」はしてきていない。むしろ常識を知らない!と。
それと少し似ていて、仕事も「金を稼ぎに行く為の手段」でしかないから、職場の人となんか仲良くしなくていい、と、また「ゼロか100か」の理論で話をされてたなぁと思います。
けれど、私は職を転々としてきた中でも『あそこの人たちは良い人ばかりだったな』と思う職場もあるし、一概に「職場の人間なんて皆クソ」みたいに一蹴するのもどうかと思います。
そういう風に教えられると、学校にしても職場にしても少し自分に嫌なことが起きると、母から植え付けられた負の感情で『ほら、やっぱり』と、すぐに思ってしまってた気がします。
けれど今思い出すと皆敵視しないといけない程、嫌なやつばかりでもなかったし、バリアを張ってたのは、ほかならぬ「母に洗脳された私」の方だったなぁと感じます。
最近、さすがに週3~4の派遣事務だけでは生活が厳しく、副業を始めたのですが(それで更新が飛び飛びになっています)副業の職場は、皆がすごく良い人たちばかりで出勤するのが全く億劫ではないのです。
元来、働くことは嫌いではなかったけどとにかく人との付き合いがしんどいので、自分のことを「仕事嫌い」と評価していましたが本当はそこまででもなかったのかも。
母の訳のわからない他者をやたらと敵視しなければいけないと感じる呪いから、自分がやっと解かれてきて、人の優しさに気がつけるようになったのかも知れません。
学校も仕事も、どちらにしても「長い時間を過ごす場所」であることに変わりはないので、心を無にしてただ時間が経つのを待つだけのように過ごすことは、非常にもったいないのでは?と、今になってやっと気が付きました。
そのように過ごすことも1つの道ですが、多分私にはあまり合ってなかったのだと思います。