昔は私自身も、母みたいな「毒っぽさ」があったことは自覚しています。
昔のことを思い返すと、常に何かにイライラして、人のダメ出しばかりしていた気がします。
若い頃は母を嫌いではなかったし、尊敬していたので、母の言うことを真面目に信じ、母の言動を本気で真似していました。
19歳の頃、6歳上の彼氏がいました。
彼ともそう長く続きませんでしたが、彼に対しての言動が一番母っぽくて彼には嫌な思いをさせたと最近思い出します。
当時私はまだ学生でしたが、彼は社会人で既に車を持っていたので休みの日にはよく車で出掛けていました。
パーキングに車をとめて、買い物や食事をして夕方帰るというのがお決まりでしたが
彼がパーキングに着いてから鍵をごそごそ探すのに、私は毎度イラついていました。
『何で今から車に乗るのわかってて、キーを準備しておかないのだろう』口には出さなかったけど、毎回不思議に思っていました。
ある時、助手席側で立って待っていたら、なかなか鍵が開く音がせず彼が「あれ?鍵ない!どこやったっけな?渡した?」と言い出し、ついにブチ切れてしまいました。
『店からここまで、だいぶ距離あったでな!?』『何で歩いてるうちに鍵探しとかんの!?』と、声を荒げて言いました。
思えばこの彼には正月早々話があると、喫茶店で延々説教したこともあります。
最近このことを思い出して、私何であんなにあの人に怒ってたのだろう?と考えていたのですが
当時の私は彼のことを本当に好きだったし、本気で彼のためを思って言っていたのです。けして嫌な思いをさせてやるつもりもありませんでした。
それと同時に、大切な人だからこそ「ちゃんとできてない」部分が、どうしても許せなかったんです。
じゃあ、その「ちゃんと」って何なの?って考えた時、当時の私の頭の中では『今から車に乗るのなら、キーを準備しておく』ことが「ちゃんとしてる」だった訳です。
キーをあらかじめ準備しておくことが「正解」であり、それができない彼氏が「間違えている。直せ」という考えだったのだと思います。
加えて「キーを準備しておくこと」が、世間一般で言っても「評価される行為」だと思うから『それを教えてあげる私は、むしろ良いことをしている』という感覚だったのだと感じます。
こう思うと、他にもこのようなことが(この彼以外にも)数えきれないほど思い出されます。さぞかし、言われた方はうっとうしかっただろうな。
昔から少しのことでも、手間取ったり失敗するとすぐに母に小言を言われたり怒られていたので、それに対応できている自分が「世界基準」だと思っていたし、何でも「正か誤か」「善か悪か」でしか物事を判断できませんでした。
毒母にそっくりどころか、毒母のコピーロボットみたいでした。
しかし、その思考は時に自身をも苦しめます。
だから常にイライラしていたのではないかなとも思います。
今でも、そうやって育ってきてしまった私には、人のそういう部分に気付いてしまいます。
『何で、レジに並んでるのに自分の番になってから慌てて財布出すのだろう』
『何で、ここに立ってたら邪魔ってわからないんだろう』
気付かず生きることはもう無理かもしれませんが『そうか。こういう人もいるんだな』で済ませられるようにはなりました。
良かったのか悪かったのかはよくわかりませんが、少なくとも怒りっぽくはなくなったので、良かったと思うことにしています。