もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

バッサリ切り捨てることへの罪悪感

雨の日の通勤は季節問わず厄介ですが、梅雨どきは特に滅入ります。

今日は雨だったので、また母の言葉を思い出していました。

 

「JRは、吹きさらしやろ!」「だから母さん、JR嫌いやねん」と、わざわざJRで通勤している娘の前で言わないと居れない母でしたが

tari97.hatenablog.com

こういう時に親子であっても『母さんはそうなのね。だけど私は違うから』で、一般的には済むのだろうな、ということがわかったのはつい最近です。

 

たったその一言をなぜ私は母に言うことができなかったのだろう。

今となってはそうも思うけれど

やはり昔は『そんな返事を母にするなんてめっそうもなかった』訳です。

 

時々、私もそういう返しをしてはいましたが、毒親というのは「あなたはそういう意見なのね」という線引きを他者との間に引くことができず、自分と異なる意見の人はたとえ娘相手でも否定対象だし、自分の意に反して行われたことならもっと貶すこともあります。

何が何でも自分の意見に賛同させようとします。

 

言われて確かに腹も立つのだけど

母親がそう言ってるなら…そうなのかな。

母親がだめって言うから…だめなのかな。

私は昔からずーっとそう思って、母に合わせて生きてきました。

 

例えばそれが赤の他人なら『人がいいなと思ってやってるものにケチつけんなよ。てか、ほっとけ』となるんだけれど「実の母親」ということが、そうやってバッサリ切り捨てることへの罪悪感を抱かせるのです。

ここが本当に厄介です。

 

確かに私もいい歳して親の言うこと聞き過ぎてたな、とも思うけど

子どもの頃は親の言うことを聞くことは、何もおかしいことではないです。

だんだん子どもも自我が芽生えて『母さんはそうかもしれへんけど、私はこうやねん』という子どもの意見が出てくるわけで

多少「生意気な」と思ったとしても「そうか」と、聞き入れることもまた親の役目なのだと思う。

 

それをいつまでも「母さんはそうは思わない」の主張から始まり、意見が食い違うと否定し貶し「意見が合わないこと」を「悪」のように言われたらこちらもそうなのかなとか本気で思うし

母と違う意見の自分はだめなんだ、間違えてるんだとも思うし

いい歳になる頃には、だんだん『言っても仕方ないし』と、諦めにも似た感情で毒親に接し始めます。

 

今思えば「たかだかそんなことで」というようなことでも自分に合わなければムキになって貶して

それに従って私自身も、やらなかったり我慢したことがどれだけあるか…

悔しいですね。

 

母は「もう生まれ変わった」とか「もう昔みたいに、やいやい言わない」とか言って

それだけならまだしも「昔だって、たいして偉そうになんて言ってなかったでしょ」みたいな態度でほんと腹立つ時あるんですけど

 

自称「生まれ変わった」頃にはとうに娘は母親に見切りつけてますからね(笑)