タイトルが何かうさんくさいブロガーみたいになってしまいましたが
実家を出るまで私は、母の顔色をうかがい、母の機嫌を取り
主語が「母」の人生を長く過ごしてきました。
学校の専攻とか、職場についても母はその度に知識もないのに口出ししてきましたが
私は『自分にはできなさそうだな』と感じることはわりとハッキリと断ってきました。
母と暮らしていた時はその『自分にはできなさそう』のラインが今と全然違っていたので(自分でも自分がよくわかっていなかった)
本当は嫌だけど母の機嫌を損ねたくなくて嫌々やっていたことも多々あります。
ただ、嫌々であっても、絶対に無理!なことまでは、自分の選択で避けてきたんだろうなという気は最近しています。
そんな中、仕事を転々とはしてきた私ですが
わりと『これならできそう』と、自分でジャッジしたことについては後々何だかんだ役に立ったり意外と無駄にはなっていない気がします。
母には、何度も転職をしたことをいつも「無駄なこと」のように言われてきたし
自分でもきっとそうなのだと思っていましたが、意外と無駄でもなかったのかもなぁというのが、今の本音です。
一番長く勤めた会社に関しては「コネ入社」というきっかけは母発信で
結局そこで6年近く勤めた私が言うのも説得力がないかも知れないけれど
その他の転職については、母に『どうかな?』と、求人票を見せて報告はしていたものの(大体これも今思えば、母の独断で何を基準に、良い・あかん言ってたのか、甚だ疑問ですけど)
探す段階では私しか関わっていない(=まずは私の『ここなら、行けそう』をクリアした求人ばかりだった)ので
嫌なことと我慢できそうなことをかなり自分で吟味してから母に見せていた、ということになり、いざ入社しても『こんなはずでは』と思うことも(転々としている割には)少なかった訳です。
たまに、見誤ったなということももちろんあったから、一瞬で辞めた会社もあるけど、次の職場で『あれ、やっておいてよかったなぁ』と思うことも意外とあったりして
私は仕事ではあまり頑張りたくないタイプなんだけれど、なんとなく次に繋がる みたいな部分にいつも助けられていたりします。
「人生で無駄なことなんてない」とはよく言われていて
私はずっと『そうか?』という気持ちがあったのですが、その選択に対し自分純度が高い場合は、あながち間違いでもないのかも知れないと最近思うのです。
例えば母が怒るからとか、機嫌悪くなるからとか
そんなことでやったことは大半なんの意味もなかったと思うし
(母と過ごす時はほとんどこういう気持ちで動いていた)
一体、あれが何の役に立ったのだろう?ということばかりで
母と離れてからも、母をはじめ『仕返ししてやる』とか『相手より偉くなってやる』とか「誰かを対象に」やったことは、ハッキリ言って何の身にもならなかったし、自分の気持ちもスッキリしないし
その時に悩んでいたことの答えが今やっと見えてきたと言うか
よく毒親問題で言われる「自分軸で生きる」というのは「自分本位で生きる」「自分勝手に生きる」のではなく「自分純度を上げる」ということなのだと思います。
それを完全に勘違いしていた時期がこの記事に書いた時期だったと私は思っています。
とは言え、長年主役が「母」だった人が、すぐに自分を主役にするなんて、できなくて当たり前です。
ずーっと脇役だった(何なら舞台にすら立っていなかった)人が、急に主役やセンターになんてなれなくて当然です。
でも、自分の人生なんだから自分が主役になっても良いのです。
(それに気がついたのが、私の場合30過ぎてから。良かったのか悪かったのか)
その為にまず「嫌々やっていたこと」を洗い出して辞めてみるとか、自分なりの至福の時間を見つけてみる、というのはくだらないことに見えて、実はすごく大切なことだと思います。
私はそれをするのに、ここまで約5年かかっています。
そして、未だに今さら『母に言われて何となくやっていたけど、ほんとはこれ嫌いだったんだー』等と、気がつくこともあります。
もうアラフォーに片足を突っ込んだ今『今まで何してたんだろう』と、悲しくもなりますけど…
せっかくの私の人生、これからも自分純度を上げられたらなぁと思います。
多分、毒親じゃない親のもとに生まれたら、元々自分純度がどうなんて考えずに
そもそも純度90%くらいで生きられるんだとは思うんですけどね。
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