もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

矛盾だらけの毒親

これまでも何度も書いてきて、前回も少し具体的に書きましたが

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幼い頃から、母は何でも「危ない!」「やめとき!」と、何かにつけて先回りし、子どもがやろうとすることをことごとく制止してきました。

 

これは、とにかく「面倒なことが起きるのが嫌」=精神的に未熟すぎて何かが起きても対応できる自信がなかったのだと、今になればわかります。

 

「本当に心配をして」も何割かはあったのかも知れませんが、それにしてもちょっとうるさすぎやしないか?というのも、幼心ながら感じていました。

 

そうやって言われ続けると、新しくやってみたいことがあってももういいかなと思ってしまうし、実際私はかなりいい歳になるまで1人では本当に何もできない子でした。

 

だんだん、周りと比べて自分が色んなことをできない子なんだと気がつき始めて、徐々に友達の真似をしたり、母に隠れて練習をするようになりました。

 

私が母の毒親ならではの言動に一番惑わされたのが、料理についてでした(今まで書いた内容と少々重複しますが)

 

小学校5年くらいまで、私はガスの火をつけるのが怖くてできませんでした。

これは母から「親のいない時にガスを使うな」とこっぴどく言われていたからです。

 

小学生だったある日、友達の家に遊びに行った時に「お腹減ったから卵焼き作ろう!」と、友達が卵を焼き始めて驚きました。

「マヨネーズを入れるとおいしいんやで」と、焼いてくれた卵焼きがすごくおいしくて

『できるようになりたい!』と思った私は、母の留守の時に、友達の真似をしてちょくちょく卵焼きを作りました(ちなみに卵はいつもストックがたくさんあったので1~2個使っても怒られませんでした。安いからでしょうね)

卵焼きを作れるようになり嬉しかった私は、その後よくマヨネーズ入りの卵焼きを1人で作って食べました。

私は実家にいた頃、隠れて料理をやることだけに限らず、何かにつけてそうやってコソコソやらなければならない環境が非常にストレスでした。

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実際にはストレスになっていたのだろうな、と最近になってわかったという感じですが。

 

私は、長い間鍵っ子でしたが、こういう「自分のやりたいことを、母の目を気にせずやれる」時間が持てることが嬉しくて、鍵っ子であることを、寂しいと思ったことはありません。

時々母には「家で1人でおるの、寂しくないか?」と聞かれ『全然!むしろ楽しい!』と答えていましたがこれは本当に強がりでも何でもなく、心の底からそう思っていました。

今思えばあの頃から母のことは相当苦手だったのだと思います。

 

話がそれましたが

そうやって母は「危ない!」「やめとき!」と、子どもの「料理をやってみたい!」という気持ちを散々削いでおいて、定期的に「料理を毎日やるのはこんなに大変」「あんた達は口あけて待っとるだけやから」「私は女中じゃない」とキレて、ひとしきりわめき散らして

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そんな母に、私はいつも矛盾を感じていました。

 

ガス使うな!とあれだけ怒っておいて、娘に料理をもう少しできるようになってほしいの?どうやって?

「口あけて待っとるだけ」の娘になったのは、少なからず母のせいでもあるのではないのか?

 

そして、もう少し大人になってからは「一度献立考えるのからやってみろ!」と言われたので、焼肉にすると「こんな肉食えるか」とボロクソに言われ

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幼い頃は『おかしいのではないか?』『母の言うことは、矛盾していないか?』と反発を感じていた感覚さえもその頃になると『あぁ、私ってこの家ではこうやって扱われる運命なんだな』と諦めの感情に支配されて行きました。

その方が、楽だからです。

 

『こういうおかしな家に生まれたけど、出ていくこともできなさそうだし、大人しく母の言いなりになることだけが私の生きる道なのだ』と思い始めるのです。

そう思いながら、私は一体何年生きたでしょうか。

 

明らかに「おかしい」「よそとは違う」ことはわかるけど、とにかく「諦める」ことこそが、毒母と暮らす為の唯一の術だった訳です。

 

ここが、毒親との共存において、一番恐ろしいことなのではないかと今になって思います。

 

母と共に生きるには、自分が自分でいては、いけないのです。

そんなふうにしか共存できない母をもったことは、未だに残念でなりません。

 

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