もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

メッキが剥がれた家族

幼い頃から家族や家が好きではなかったという人と、うちは良い家庭だといい歳になるまで信じて疑わず、実は機能不全家族だったと気が付くのって一体どちらがマシなんだろう?とふと考えることがあります。

比べるものではないし、双方にそれぞれの辛さはあると思うけど…

長年、理想だと思っていたものがどんどん崩れ、真実を知ることもなかなか辛いものがあるなと最近感じます。

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小学生の頃、エミと、3年前に喧嘩別れした親友Mとよく遊んでいて、Mは小学生の時に両親が離婚し、母方の田舎である地方へと引っ越しました。

高校生のときに、エミの両親も離婚したと聞きました。

もう夫の顔も見たくないとエミのお母さんは言っていたそうで、私を含め3人いた友人の中で、2人の親が離婚したんだな、うちは一番世間的にマトモだったのかも…と、離婚に良いイメージのなかった当時は、そう思っていました。

親には恵まれなかったと話すMにも、うちに泊まりに来た時に私の両親の仲睦まじい様子を見ては羨ましがられたけど、今となっては両親はただ家族・親という名のもとに互いに好き勝手していただけのように思います。

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父も母も働き者だったし、金銭的・物質的に困らなかった事だけが救い。

 

短大の時の友人のユリは、いつもお金がないとバイトばかりしていました。

本当は県外の大学に行きたかったけれど、親に財力がなく地元の短大にしたと言っていて、結局バイトばかりで学校に来なくなったユリは退学しました。

ユリの家は放任気味で「たりの家いつもお弁当あっていいなぁ」と言われ、その話を母にすると「ユリちゃんの分もお弁当作ったろか?」と言うので、ユリの分のお弁当も持って行くという時期もありました。

ただ、うっすらある記憶の中でこれもまた手の抜き方のわからない母が急に「なんでこんなしんどい思いしてユリちゃんのお弁当作らなあかんの」と怒り出し、ユリに『ごめんな、母がしんどいからもう作られへんって』と、母にキレられたこともバカ正直に話し(かつては母を崇拝していたので、外でも母に言われたことをそのまま伝えていた)

ユリにも「いや、別に作ってくれるから食べてただけでこっちが頼んだ訳でもないし」と半笑いで言われ(確かにそうですよね)一緒にいた友達も不思議そうな顔をして微妙な空気になった覚えがあります。

 

そういえばユリはよくこんな事を言っていました。

「私は子どもが生まれたら20歳になれば有無を言わさず家から出す」

「子育てはある意味親の洗脳やと思う」

だからこそ、ある程度の年齢になれば自立が必要だ、ということを言いたかったのだと思うし、暗に過保護に育てられている私に向けて言っていた可能性も無きにしも非ずです。

 

昨日遅くに帰るとご飯がなくて、コンビニでカップ麺買って食べたわ!とか、オトンがまた酔っぱらって玄関で寝てたから蹴っ飛ばしたわ!など、ユリの家での光景はうちでは無いようなことばかりで、私はそんなユリを『かわいそう』と思っていたけど、あのセリフを思い出すとユリの親は放任ではあったけど毒親ではなかったんじゃないかと思います。

私がかわいそうと感じていたユリの家の方がよっぽど健全で、人間らしい家庭だったんじゃないかな。

 

私は、本当はどう生きたかったのか?何が嫌だったのか?何が好きだったのか?

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母に従うばかりでわからないまま過ごしてきた自分から、素の自分に戻ることが解毒と思っているけど、それが進むたびに母に洗脳され、信じて従ってきた時間だけが惜しくてたまらないし、バカみたい!せめて成人してからの10年返してくれ!と思います。

 

うちは仲良し家族♪と信じて疑わなかったから、どの時代に出会う友人と比べてみても私の家族の絆の方が素晴らしい!と思って生きていたし、幼い頃は自慢の家族だったから、それが私の生きる原動力でもあったのです。

 

物心がついて20年以上経ってから、それが覆される辛さもなかなかのものだと思います。

みんなはもっともっと見晴らしの良い、心地の良い場所を知ってるのに、実はそうでもない場所を、ここはいい景色だ!最高の場所だ!と信じてて、気が付くと自分だけが取り残されていた…みたいな感じ。

 

じゃあ、その真実に気が付かないまま暮らしていた方がよかったか?とも考えるけど

あのまま母と暮らしていたら心も体も死んでいたも同然。

 

毒親のもとに生まれたら真実に気が付いても付かなくてもどっちにしろしんどいってことです。

 

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