もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

モラ友にかけられていた呪い

私は小さい頃から、嫌いな人や苦手な人でも「良いな」と思う部分は素直に認めるし、相手の良い部分を見つけよう!というところがあって、我ながらそれが長所だと思っていました。

学生時代、何か苦手…と思ってた子に配布物を渡した時みんなが黙って受け取る中「ありがと!」と言われ『苦手認定していたけど、悪い子じゃないのかもしれない』と何だか申し訳ない気になってしまったり。

表現方法のえげつない母に育てられた割には、そういう心優しい部分があります(自分で言う)

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ですが、母を崇拝して肩肘張ってナメんなよ!みたいに暮らしていた時代もあります。

テレビを見て必要以上に芸能人をブス!と言ったり、友達と話しててもあれ嫌いやわーとお構いなしに言ったり。

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それでも根底にある「人の良いところに目を向けよう」というのはずっと持ち続けていました。

 

しかし、だんだん人に裏切られたり、嫌い嫌われしているうちに母の言う「人は裏切るけど、金は裏切らへんで!」というのを盲信し『心を捨てて生きるぞ!』と他人をはねのけた時期もまたありました。

それでもやっぱり私は「お金さえあれば」という思想にはなれないと実際にやってみてわかったし

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確かにお金は物理的なことを助けてはくれるけど、心を助けてはくれないなとも気付いてはいました。

こういう私の考え方を邪魔しているのは母なのでは…とある時気付き、毒親という言葉を知る前から徐々に母の言うことに疑問を持ち始め、母と衝突が増えたのもそのあたりからでした。

この時のことも母は「あの頃、たりはよく1人で怒ってたもんな」とまたお得意の記憶改ざんしています。

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冒頭に書いた通り苦手であっても相手の良いと思う部分を素直に認めるところは私の長所だと思っていましたが、今度はそれで図に乗る人もいて(ブログに登場したモラ気質の人たち)そういうことも口に出すのはやめよう…と思った時期もあります。

 

モラ気質だった元親友Mから「たりってさ~ハッキリ言うよね」と言われたことがあります。

更に「私はさ、どっちがいい?って聞かれたら両方の良いところをそれぞれ挙げるけどたりはハッキリこっちが良いと言うよね」と。

あれって遠回しにまた私を貶してたんだろうなと気付いたのはつい最近です。

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私は母に言われて嫌な思いをしていたので「アカン」とか「変」などネガティブな表現はしないようにしていたし、服のコーデなど自信のあることは明確な根拠があって言っていました。

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もちろん、自分が推した方を相手が選ばなかったとしても文句は絶対に言いません。

母には相談をしただけなのに貶されるわ、母の思う方を選択しないと「じゃあ最初から聞くな」とキレられることも多々あって

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Mからもさっきみたいな指摘をされ、そのせいでハッキリと好きor嫌いとか良いor悪いと思うとかすっかり言えなくなっていました。

 

職場で雑談していた時、これとこれどっちがいいと思う?と先輩に聞かれ、明確に『こっちがいいな』と思う方があったけど『何と答えるのが無難か』『機嫌を損ねるのではないか』…延々考えながら『ん~どっちも好きかなあ。Aの方はここがいいし、Bはここがいいですね』と核心に迫らないことばかり言ってたら「もういいわ!たりさんに聞いても全然あてにならへん」と笑われ、先輩はどこかに行ってしまいました。

Mとも交流がなくなった後だったのに「どちらがいい?」と聞かれる度にMに指摘された時のことを思い出してはこんな調子で、いかに自分をなくしてたかがわかりぞっとしたのでした。

 

ハッキリ言うのも個性だし、言わないのも個性。

どっちが良いとか悪いの話ではないです。

私はできるだけ『アカン』『変』とかネガティブなことは言わず『こっちが良い』という表現をしたいし、相手を嫌な気持ちにさせない努力はしたい。

けれど毒母やモラ友は私の主語が「私は」になるだけでも不快なんです。基本的に私を下に見ているから。生意気な!とでも思うのでしょうか。

そんな人たちの中にいた私は、自分の口から発することの主語がずっと『私は』ではなかったのです。

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毒親に自分軸を乗っ取られ、モラ気質の人にも自分自身を押し殺して接するとこんなに恐ろしい後遺症があります。

長所さえも長所として認めることに罪悪感を抱き、そのうち自分の長所や魅力すらわからなくなるのです。

 

どんな選択の時も自分が発言することの主語を『私は』にすることで、自分を守ることにも繋がるのだと思います。

 

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