「親ガチャ」という言葉が話題になっているみたいです。
毒親育ちの方からすれば、え?今さら?じゃないでしょうか。
前にもサラッと『親ガチャが外れ』と書いたし
今でも『私は親ガチャに失敗した者です』と声を大にして全然言えます。と言うか、言いたい。
そもそも毒親育ちの親ガチャの認識は一般的に論争が起きているガチャとはちょっとニュアンスが違うみたいですね。
なので、私も毒親育ち特有の捉え方しかできないのですが。
親ガチャについて「そんな言葉良くない」というのはまだわかります。
ただ、こういうことを何の疑いもなくサラーっと言えるのって幸せなことです。
毒親の話をした時に「親も人間なんだから」「親だって必死だったんだよ」とかの類の言葉を掛ける人と同じですね。多分大半は悪気はないんです。
そういう人はそんな言葉が純粋にぱっと言える環境を大事にしてねって思います。
前にSNSで子どもの受験だったか、塾だったか…教育に関することを発信していた人が結構叩かれていたんです。
私はそもそも子どももいないから教育がどうの、も興味ないんですけどバズってたのでどんなコメントが来てるのかなって見に行ったんです。
叩かれた発信者も負けじと応戦していて、その中に「私は(これだけ叩かれていますけど)親ガチャは失敗していないので!」みたいな反論があったんです。
いや…なんて言うか『痛いな』が正直な感想でした。親側がそれ言う?(笑)
それで今回の盛り上がりの中で、親ガチャという言葉の良い悪いとは別に自分が親として不完全であることの自覚はあるけどそれから目を背けるために「親ガチャなんて…」と言っている親もいるんじゃないのかというようなコメントを見つけてなるほどと思ったんです。
さっきの叩かれていた人はそれすらも超えて自分で「親ガチャ失敗していない」なんて言ってしまうあたり自信のなさの表れじゃないかな…と。あくまでも私の意見ですけど。
親ガチャが失敗かどうかは子どもにしかわからないし、面と向かって子どもに「親ガチャ外れじゃないよ」って言われても本音かどうかなんてわかりません。
現に母は、昔私や姉が家ではニコニコ楽しそうにしていた姿を「あんなに楽しそうに過ごしてたやん」(=まさか毒親って言われるなんてニュアンス)って言うんですけど、いやいや…母に対して思うことなんてたくさんあったけど、あの家で生きていくしか道はないしその為には母の機嫌を少しでも損ねないように…って思ってたから楽しくなくても楽しそうにしたり、母の前では機嫌の良いふりをしていただけで…。
逆に言えば子ガチャも外れの場合ある!と声高に言う人もいるし、それもわかるけどそれはちょっと論点がずれている気がします。
子を産んだ以上親として養育する義務はあり、子どもの帰る家はそこしかないのだから。
よく子どもはお空から見て親を選んで産まれてくる…みたいな話ありますけど、あんな話自分の親が毒親とわかる前からバカみたいって思ってました。
その話を初めて知ったのは多分中学生くらいの時だったと思いますが『自分が自分であの母親選んだんやとしたら…見る目なさすぎ』と、作り話とわかっていても落ち込んだし(そんなこと思っている時点で親ガチャ外れ確定)
小さな子におとぎ話的に話すには良いのかも知れませんが、私はこの話大嫌いです。
頭が良いとか悪いとか、背が高い低い、イケメンかブサイクか…みんな大なり小なりガチャを経て生まれて来ている、親ガチャもそのうちの1つなんでね(それにしてはハードル高すぎやろとも思うけど)
容姿や背格好が気に入らなくても少々頭の出来が悪くてもみんなそれぞれ折り合いをつけて生きているし、手を加えて良くできることはすれば良いとも思うし、なので親ガチャ外れも同じです。親に恵まれなかった、それだけ。
だから、できることをやって生きてくしかないってのもどのガチャも同じ。
なのに親ガチャだけがこんなに論争の的になるのは、やっぱり親を敬うことが素晴らしいというお国柄ですかね?
家族神話ってこわい。
スター、コメントありがとうございます!