子育ての悩みを人から聞くと『子どもを産まなくて本当によかった』と心底思うあたり、私には本当に子どもを育てられるほどの器はなかったのだろうなと思います。
その分親目線にはなれないけど、子ども目線の大人である(しかも親が嫌いだった)のである意味的確な助言ができるのかも?と思う時もあります。
ある人の子育て話を聞いていると「子どもの頃自分が親にされて(言われて)嫌だったことはしない(言わない)ようにしている」と言っていて、子(娘)にも穏やかに接し、母娘関係も良好に見えましたが、最近少し遅めの反抗期が来たようでした。まあ、彼氏に夢中になりなかなか帰ってこない…みたいな、年頃の子にはよくあるようなことでしたが。
途中から親の言い分が「子どもの頃親にされて嫌だったことはしない」に偏り過ぎているのがすごく気になったんです。
私の母は普通・一般的を意識するあまりいつも主語が周りが…親戚が…世間が…でした。
本人は無意識でしたし私も疑わず説教を受けていましたが、大人になり怒鳴られたある日『あれ?おかしくない?』と気が付いたのです。
ずっと母のことを主体性と確固たる信念があって子育てしていると思っていたけど、結局のところ主体性は全くなく、見聞きした世間一般論(しかも大半があのおかしな母一族の親きょうだいの教え)をまるで自分の信念かのようにふりかざしていただけでした。まぁ、そこまでは戦後数年生まれの人にはよくある話なのかも知れません。「みんなと同じ」が今より尊重されていた時代ですから。
かと言って母世代の人みんなが毒親ではないあたり、やっぱりうちの母には何かが足りなかったんだと思います。私はそれが「主体性」だったと思っています。母にそれがないので、子どもの主体性とか自主性を尊重するなんてできる訳ないのです。いつまでも娘は「自分のモノ」。
世間一般論にとらわれた母に脅しと圧で従わされていただけでしたが、私自身そのことに気が付いたのも母と離れ、アラフォーに片足を突っ込んでからでした。
話はそれましたが先述の人に助言をするとしたら、そこに愛はあったか?いや、そこにI(アイ)はあったか?です。
「子どもの頃親にされて嫌だったことはしない」これはとても正しく美しいこと。しかし、子育てにあたり無条件で主語を「わたしが」ではなく「娘が」にしてはなかったか?そこが気になります。
子がこう感じるだろうから、親(=自分)の意思に目を向けることなく何かをしてあげる…全てがそうなると健全ではなくなるのだと私は身をもって経験しました。主語がいつも他の何かで、それを「娘のため」と言い換えて、結局主語を「わたしが」にできなかった母と、根っこの部分では同じだと思います。娘が反抗したのは、そういうものを感じ取ったからではないかな?と。
子育てもしたことない人が何を偉そうに、と思われるでしょう。確かにここまでは聞いた話から感じた私の憶測です。
でもこれって子育てだけじゃなく人付き合い全てに言えることだと思います。子育ても親子と言えど、人対人です。
私がずっと他人軸で、相手はどう思うかな?どういう答えが欲しいかな?…そればかりで生きてきた故にしてきた多くの失敗、主語を「わたしが」にしなかったがために多くのことがうまくいかなかったのと同じだと思うのです。
もちろん他人を思いやることをしないとか傍若無人にふるまうことではないです。そう勘違いし、失敗した頃もありましたが…
その人が「次からは子どもにはこう接していこうと思う」と決意を話した時、自分がそれをやりたいかやりたくないか、も大事にした方が良いと思うとも伝えました。子を思うあまり自分の心を殺して子を主語にしすぎていないか?と伝えたつもりです。
"「子どもの頃親にされて嫌だったことはしない」を実行すること " が、子育ての幹になっていないか?
端的に言えば「あなたのためを思って」…これになってないか?です。母に何度言われたか…嫌な言葉…
とは言え、子育ては現在進行形です。ドラマや映画のように一時停止はできません。1回1回自問自答するなんて、難しいとも思います。
私が1人で暮らすことが好きなのは、こういう自分自身に向き合い、問いかけ、自分を取り戻す作業を、目いっぱいできる感覚があるからでしょうね。まだもう少し、1人がいいなぁと思います。
私自身がまだ大人になりきれていないのでしょうね。
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