とにかく昔から私も姉も自分なりの小さな幸せやプチ贅沢にものすごく喜んだり、どんな小さなことでも話のネタにして盛り上がっていたなと思います。
昔は今ほど娯楽(ネットやスマホ)もなかったから自分たちで工夫して余暇を過ごすしかなかったというのもあるけど、自分なりの世界を作ることで母から精神的に逃避し、自分を守っていたのだと思います。
2人とも結構いい歳になってもぬいぐるみ遊びやごっこ遊びもしていて、今思うとあれもちょっと度を越していたと思うんですけど一種の現実逃避だったと思っています。そうでもしないとあの家ではまともに暮らせませんでした。
今でも自分の趣味に関しては拘りがありますが昔の自分を思い出すと色々拘りが強すぎたと思うし、それが高じて強迫性障害っぽいところがあった自覚もあります。
一方母は「これだけは譲れない」みたいな自分なりの世界が全くなく、それは別にいいんですけど(無趣味を悪く言うつもりはないので)自分の価値観を必ず家族に押し付け、共感を求めるから嫌いでした。
母が1人で出かけたり何かをして『お母さん何か楽しそうにしてるな』ってのも昔から本当にありませんでした。
だから娘が楽しそうにしていると「部屋片付けろ」とか、友達や彼氏との電話中にもお構いなしに「何時やと思っとんや」と怒鳴ったりしていたのでしょうね。
自分の譲れない世界がないから、それを持つ者を貶める為にそうやって水を差すんです。
どうせ本人は無意識でしょうけどね。「自分を差し置いて楽しそうにするな」という潜在意識がそういう行動をさせてたのだと思います。
母は服やメイクに無頓着で、衣食住の「衣」は少々いい加減でも生死に直結はしない、綺麗な服や化粧品で腹は膨れない、そういうことを言っては「食」を一番に考えている自分は「良き妻・良き母」みたいに言っていました。
確かにそうですね。けれど何でも限度ってものがあります。
私は衣食住の中では断然「衣」を大事にしたい派なので、欲しい服とか化粧品のためならいくらでも「食」を削れるタイプです。かと言って、毎日もやしばかり食べる、とかではないですよ。
ネイルにも月1で行っていて、確かに高いなとも思うけど指先が綺麗だから仕事も頑張れます。欲しい服があればランチ代も抑えて外食も我慢できます。
要は人生ってバランスで、こういうことの繰り返しで自分なりの世界を作っていくものだと思うんですよね。
確かに、親が自分の私利私欲だけ満たして子が腹をすかせることはあってはならないことです。
しかし、親側もにこやかに穏やかに過ごす為の出費であったり時間であったりはけして無駄ではないと思うんです。親も1人の人間ですし、親と言えど自分の機嫌を自分でとるのはマナーですから。
母はそこがずーっと終戦直後みたいな脳みそで暮らしてたので「食」でしか幸せは得られないと本気で思ってたのだと思います。
だから娘が買うものにもすぐに「そんな無駄なもの」などケチをつけてたのでしょう。=「そんなもので腹は膨れないやろ」なんです。お小遣いの範囲内でやり繰りすることだって社会勉強なのに母が気に入らないと全てそうやって「無駄」と言われるのです。
値段が高いと無駄、腹が膨れないなら無駄…母の理論で生きると世の中の娯楽なんて、ほとんど「無駄」ですね。
テーマパークもレジャーもライブも全部、腹は膨れませんから。
その中で自分なりの楽しみを見つけて、譲れない世界を作るのが人生なんじゃないかな。
無駄か無駄でないかは本人が決めることです。
母はそういう価値観が自分と違うと必ず他者を貶していました。
メイクや服にお金をかけている人がグレードの低い軽自動車に乗り換えると、いの一番に「グレードが低い」「お金なかったん?」と本人に言いましたからね(実話です)
自分なりの確固たる信念とか世界観がないし「あなたはそう思うのね」という他者との境界線を引けないから他者を下げることで自分を正当化して安心していたのでしょう。
家族に頼ることでしか世界が作れないから「頼る」が度を越して「依存」になるんです。
母はそうやって家族に共感された賛同されたということだけが生き甲斐だったのでしょうが、他者を無理に巻き込まないと自分の世界を作れないというのも親としての重大な欠陥だったと思います。
スター・コメントありがとうございます。