姪(姉の子)がまだ小さかった頃、姉の家に何人かお友達が遊びに来た時の話で印象に残っているのですが、何人かいたお友達の中に「ゲーム類禁止」のおうちの子がいたそうです。
その日、まずはみんなでおやつを食べて、その後違う遊びをしてから最後にゲームをやろうねと姉が決めたそう。
ところが、家に来るなりゲーム類禁止の家の子が「ゲームいつやる?」ばかりで、仕方なく姉が『○時になったらね。時間になったら言うからね』と伝えたものの、数分おきに「ゲームまだ?」「ゲームしてもいい?」と狂ったように連呼、別の遊びをみんなが楽しんでいても輪に入らず気もそぞろ、時間になれば一目散にゲームを始め、結局みんなにも順番を譲らず…な子がいたそうです。
ついこの間、Xでこのポストを見かけて、その子のことを思い出していました。
私もそうなんだけど
— トダ (@_t0da_) 2024年10月26日
ゲーム禁止だった家の子が大人になったらゲーム三昧だったり
市販のお菓子禁止だった家の子が3食お菓子生活になったりするの
「自分の心の中にいる、泣いてる子供の自分を泣き止ませたい」という衝動からきてる気がする
そして、その子供は一生泣き止まないのだ
結局その子はその後、高校生くらいになってだいぶおかしくなってしまったようです(詳細を書くと身バレしかねないぶっ飛び方だったので、どうなったかは省略します)
これって、だらしないとかいう話ではなく、依存症のようなもので、軽く見てはいけないと思うんですよね。
私の場合は、とにかく誰にも邪魔をされない1人の時間に異様に執着心があります。
その1人の時間も、何かをするというよりは『一切何もやらない、それを目いっぱい楽しむ』ことに躍起になっているように感じます。
ここまで1人で気ままに過ごすことに執着心があるのは、何もしないでゆっくりするとか、時間に縛られずに過ごすことを、いかにできない家庭環境であったかということだと思います。
家を出てすぐはこれがなかなかできず(正しくはやり方がわからなかった)『何かしなくちゃ』といつも焦燥感があって、難関資格を取ろうとしたり、スクールに通ったりして失敗しました。
その時に『やりたいこと探しを無理してやらなくてもいいと思っている』とブログに書きましたが
結局約7年経った今でも、新たにやりたい!と感じることは、出てきませんでした。
自堕落に過ごしている感は否めませんが、とりあえずは熱意がわいて来ないなら、無理してやらない精神を貫いています。
さっきのポストの理論で行くと「自分の心の中にいる、泣いてる子供の自分を泣き止ませたい」という衝動は、私の場合自分の家でくらいは、自分のペースで過ごさせてという叫びなのだと思います。そして、私が私であること・イチ人格を否定せず、尊重してくれという思いもこもっているのだと思います。
今は一人なので、尊重も何も自分にすべての選択権はあるものの、自分一人で過ごす時間の「質」に異様に拘る、その根底には、実家で満たされなかったそういった思いがあるのだと思います。
自分でも、何もしない生活にもう少し早く飽きると思っていました。しかし、約7年やっても、誰の気配も感じない、誰に何のおうかがいを立てなくても何をしようが許されるという環境を『まだ足りない』と思ってしまうのです。
この先10年20年、長くやれば満たされ、満足するものではないのかも知れません。
理想の暮らし方を実現できている日々を愛おしく思う反面、こんなにも重症だったのだと気が付き、そんな家で暮らした半生、一体何だったんだろうと虚しくなります。
スターありがとうございます。