もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

気付きの第一歩

仕事は6月末で辞めましたが、まぁ女ひとりしばらく食べていけるくらいの蓄えはあるので、数ヵ月休んでもいいか~と1日中エアコンの効いた部屋でダラダラとしています。

 

「今日何してた?」と聞かれても困るほど、たいして何もしない1日を過ごすこともあります。

こんな自分を許せるようになったのも、本当につい最近です。

 

まだ実家暮らしの頃、ある仕事を辞めた時も今思うと相当心が病んでいました。

 

どうしても、当時の私には忘れられないようなパワハラまがいの発言を上司にされ、ボロボロで帰ると今度は、母からも「根性なし」などと数時間罵られ

怒りと悲しみに震えながら、よく母を刺さなかったものです。

 

心を休めたくてDVDをレンタルしてみたりしてたのですが『私は根性なしのダメ人間なんだ』と、まんまと母の洗脳にはまり気が気じゃなかったんですよね、せっかくの無職期間も。

ほんとは気の済むまで休みたいんだけど…母にいつも監視されているみたいに感じて。

 

実家にいた頃、いつの頃からかなぜか休日や夕飯後に自室でうたた寝してても、母に「寝てた?」と聞かれたら『いや、起きてたよ』と嘘をつくのが当たり前になっていました。

うたた寝なんかごく普通のことだし、母だってすぐ寝る人だったけどなぜかいつもそうあしらっていました。

自室が2階だったので、うたた寝してても母が階段を上がり始めたらその足音でパッと起きる(さらにまるでずっと起きてたかのようにマウス片手にパソコンデスクに座る)という何ともしょーもない技を身につけました。

 

おそらくこれは、学生の時から、母はよくうたた寝しているのに子どもたちには「寝るな」と怒っていたからだと思います。

確かに仕事と家事の両立はしんどかったでしょう。でも、子どもだって1日遊んでいる訳でもないです。ましてや小学生の頃は、毎日片道3kmほどの道のりを徒歩で通っていて、元々体を動かすのが嫌いな私は正直へとへとでした。

それでも「この家で一番しんどくて、頑張っているのは私」アピールを母にされるもんだから、しんどいとか眠いって子どもが言っちゃいけないんだ、みたいな気持ちになってたんだと思います。

 

数年前、母との大喧嘩の末逃げるように小さなアパートで暮らし始めた頃。

その時借りていた部屋がちょうど階段の真横の部屋で、人の気配がわかるんです。

休日の夕方、昼寝をしていた時に聞こえてきた足音で『やばい!』と思って飛び起きたんです。

寝ぼけながらもさっきのしょーもない「技」が発動されたんです。

 

そこで『そっか。寝てない!って嘘、もうつかなくていいのか』と、初めて気が付きました。

 

昼寝やうたた寝を、気配を気にせず堂々とできるようになったのはもう少し経ってからでした。

 

実家を出れば、確かに母の姿は見えなくなりました。

でもこうやって、いろんなことが「母基準」で成り立っていたことに気づき「実家を出たら解決」では、全く!ありませんでした。

 

その、気付きとなる、はじめの一歩のエピソードでした。

やっぱり書きたい

このブログを始めてすぐ、母のコネで入った会社で勤め続けることに限界を感じ、2度転職をしたものの、心に限界が来て、現在無職になりました。


ずーっと色々書きたかったけれど『働かなきゃ!』という思いに駆られ、なんか色々勢いだけで走ることが無理だ…と感じ、一度自分をお休みさせてあげよう、と思った←今ここ です。

日々、思うことはたくさんあって、何か書きたい!という気持ちもあるものの実行できなかったことを、今この暇なタイミングでやろう!と思った次第です。


思えば昨年、コネで入った会社を辞める時が、30過ぎて、初めて自分だけでやった転職活動でした。

普通の人からしたら信じられないと思うけど、私は働くところを自分で決めたことがありませんでした。

若い頃のバイトも、社員で働いたとこも全部、求人広告やハロワの求人票を母に見せて『ここにしなさい』と言われた所へ面接に行く。
ちょうど不況の頃に会社を辞めてしまい、やむなく母のコネで再就職し、そこで一番長く勤めたために三十路も迎えてました。


昨年の夏を思い出すと、怖かったです。
皆が20代、若ければ10代で経験することを、30代で初めてやるのだから。

幸い、今はネットで何でも調べられる時代で、だいぶ助かりました。

『若い時から自立してない自分が悪いんでしょw』そんな声も聞こえて来そうです。

しかし毒親育ちの怖いところって、ここなんですね。
本当に、親がやってることを『おかしい』と思わない、思っても『おかしい』と声を上げられない。声を上げると倍以上で返されます。


結局、色んなことがあり、今は無職ですが後悔はしていません。

毒母と精神崩壊寸前まで同居した数年、ずーっと走り続けて来て、立ち止まるのが怖くて。
1人暮らししてからも、転職しても、いつもどこかで『走り続けなきゃ!』と自分で自分の尻を叩いていたような感覚。

それが、今年の初夏、心の不調として表れた時に『1回気の済むまで休もう。私は十分走り続けてきたじゃないか』と、自分を甘やかし、休むことにしました。
いや、まぁ、自分には十分甘いんですけどw

本当はこのブログは、自分の母のおかしさを時系列で紹介するブログにしたかったのですが

今は思いつくままに、書いて行こうと思っています。

毒親の種類

私にとっての「毒親」は、母親でした。
家族構成は父・母・姉。

姉は5歳上で、私が10代後半のときに結婚し家を出て行き、その数年後から母との関係に疲れるようになりました。

その頃私は、バイトながらそこそこお金も稼ぎ、友達も増え、それなりに楽しく過ごしていました。
ただそうやって友達もできて、出歩く私に対し、母はいい顔はしなかった気がします。

学生時代は彼氏もいましたが、だんだんと過干渉になる母に、彼氏が欲しいともあまり思わなくなっていました。
1人出会うと「何歳?どこの人?何してる人?」
親として聞くのは当然のことだと思うけど、母の場合はまるで尋問。
まだ、結婚だって考えてもない、そんな段階から「長男か?」とか聞かれ『うん、多分長男』と言うと「そら、あかんわ!」と言われる。

当時はなぜかわからなかったけど、答えは簡単で
娘2人のどちらかに婿をもらって、同居させる。姓を継がせる。それが母の人生目標だったのです。
それで、姉は先に嫁いでいったので、ターゲットは私という訳です。

このご時世、ものすごく良家だとか、目立つ魅力もないようなとこにわざわざ婿入りする人なんかいると思うか?と今になったら思いますが
(そもそも長男でないひとを探すのも結構難しい)母は私が家を出るまで、本気でできると思っていたらしいです。

そんな感じで、ちょっといいな、と思う人ができても「母の過干渉の壁」を越える方が面倒だと感じるようになった私は
その頃から恋愛を避けるようになり、それから真剣に付き合えるひとを欲しいと思ったことがない。し、できたこともない。

もちろん元々の性格とか、自分にも欠如している部分はあるし、恋愛できないのを親のせいにするなよ、とも思っています。
でも、本気でひとを好きになった時代も確かにあったし、そのあたりから意識的に恋愛を避けるようになったのも事実。

他にも詳しいエピソードがいくつかあるので、また追々書いていこうと思います。

彼氏だけでなく、友達も含め、母はとかく他人との関係の構築を妨害するタイプの「毒」の持ち主だったな、と今になって思います。

放任しろってことではないんです。

子ども自身の「人との出逢い」
それは「人生の開拓」でもあると思う。

しかしそれは過干渉親からすると=手元から子どもが離れることなので、それを暖かい目で見守れない、祝福できない親だったんだと思います。