もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

喜んでもらえたという成功体験

ある芸能人が、例えばおいしそうなものをもらったとして1つしかなかった場合、パートナーにももう1つ同じものを買って一緒に食べたいと話していました。それを聞いた友達も「私もこの人と同じ感覚やわ」と言っていました。

一方、私はと言うと全く共感ができず『それ、押し付けにならないかなぁ』『買ってこられる側ならいらなくても食べなアカンよなぁ』とか思っちゃうんです。ひねくれてますよね。

自分がそんな風にしか思えないものだから、人にも何かをあげたり、極力しないんです。食べ物に関しては、元々食に興味がなく昔から少食で姉とも何でも半分こでも満足できるという性質も特に影響してるとは思うのですが。

 

気軽に差し入れをする人、職場の休憩中にみんなの飲み物を率先して準備してあげる人。前も書いたけど、私はそういうことをするのがすごく苦手。

tari97.hatenablog.com

あれだけ、母の顔色を窺って生活してきたので、こうしたら喜ぶかなとか場の空気を読み、考えることはできるのだけど、いざそれを行動に移すとなると途端にできなくなってしまいます。

姉も昔、母によく「あんたは気を遣う割に気が利かんな」とバカにされていたけど…少なからず何かをした時の母の娘への対応がそうさせている部分があるのではないか?と。

 

気を利かせたつもりで何かをしても、母はあくまでも要・不要だけを判断するので " それは今不要だったけど、やってくれたことに対してありがとう " がありません。

不要だった場合、ありがとうどころか「そんなもん、今いらん」となるんです。

人に何かをしてあげるということが頭に浮かんではいるけど行動できない理由はおそらくこれが原因ではないかなと。

tari97.hatenablog.com

 

仕事などで何かをこちらがした時にも、わざわざ『間違えてたら言ってください』と言うとか、毒親育ちの友達が過剰に「不要なら捨てて」と言っていたことも書きましたが

tari97.hatenablog.com

やったことが不要だったら、やったこと自体を否定される環境に置かれていた人は往々にしてこういうことを口走ったりそういう思考になってるんだと思います。

 

逆に何かしてもらったり、いただいたりして、不要なものでも断れないのもあるあるです。

母は自分のやることは相手のニーズに合ってなくてもやってあげた事実を褒め称えないとキレます。

友達とかにこれ食べる?とか言われた時、断ってもいいものかどうかをものすごく悩むのは、家で母親に「いらない」とでも言おうものなら「何や、せっかく買ってきたったのに」と、また地雷を踏むきっかけになりかねなかったからでしょう。

これもうちの母がおかしかっただけ、と言い聞かせ最近は断るのも練習だと思うようにしているけれど…。

 

子が親に何かをして、それがたとえ不要なことでもやってくれたことに対してありがとうと声を掛けてもらえるということ。それはつまり、一人の人間として尊重されているに等しいことだと思います。

それがある種成功体験として、培われるものが絶対にあると思います。うちにはそれがなさすぎました。

母は口では「尊重してた」と言うけど、あれは尊重している相手に取る態度ではないです。


さらりとそういうことができる冒頭の芸能人も、共感している友達も、健全に育てられた証拠ではないかと考えると、何とも虚しい気持ちになります。