もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

あんなにしてやったのに 「のに」がつくとぐちがでる

タイトルは相田 みつをさんの詩です。

母に読ませたいわ。

 

前に、〇〇しなかったら次からしないと、娘を脅すみたいなことを言うという記事を書きました。

tari97.hatenablog.com

その時に「その逆バージョンもある(〇〇したら、△△してあげる)」と書いた件について書きます。

 

母の子育てはほぼ「将来、自分が1人で暮らさなくて済むための準備」でしかなかったと踏んでいるので、ほぼ全部の事項に見返りを期待していたことになります。

 

だから、あれだけしてやったのにという言葉がいつまでも出るのだと思うし最近姉から聞いた話、実際に「たりが家を出るってわかってたら、あそこまでしなかった」と未だに愚痴っているそう。みっともないですね。

 

だから、言い換えてみたら、極端な話「自分の思い通りに動いてくれるなら、それなりの生活水準で育ててあげる」ということだったのでしょう。

子どもを産むと決めたのは親の勝手な選択なのに、たくさんの条件付きで育てられていたようなものです。

 

その、すごくいい例だなぁと思ったことがあります。

 

私は永久歯が生えた頃から歯並びがガタガタになりました。

アゴの幅に対し、永久歯が大き過ぎて、歯の位置が正常な位置からかなりズレていて、俗に言う「出っ歯」だし、肩こりや背中の痛みも酷かったのです。

 

短大を卒業した時に、母から「歯の矯正するか?」と聞かれたのですが、自分の意思よりも『断ったら怒られるのだろうか?』ばかりが気になって『イエスかノーか、怒られない方はどっち?』で、すぐに返事ができなかったのです。

 

すると、たたみかけるように「将来ちゃんと結婚するなら、お金出したるで」と母に言われました(この「結婚」はおそらく婿をもらい同居の意味を含んでいた)

 

『母から言ってくるってことは「しろ」ってことなんかなぁ?』と思って(結局『こっちが怒られない方なんだろうな』と思った)『母さんがしなさいって言うならする』とだけ、答えました。

実際結婚するかなんて、知ったこっちゃないけどな。とは当時も内心思ったので、結婚云々はスルーしておきました。

 

正常な親なら聞き方はどうであれ、娘のことを本当に想って「矯正するか?」と聞きそうなものだけど、母の「将来ちゃんと結婚するなら」は本気だったのだと思います。

逆に『いや、私結婚しないよ』と私が宣言していたら「じゃあやめとこか」となっていたでしょうね。

 

こうやって思い出すと、母の子育てって、言わば「投資」みたいなものだったんだと思います。

後に、運用できそうならば、今これくらい投じておこうか、みたいな、ようは「娘」も「金」と同じで「どう回して行くか」みたいな対象でしかなかったのだと思います。

 

矯正の件も、歯並びが醜い⇒異性に良く思われないのではないか⇒結婚できない(婿がもらえない)のではないか⇒それは困る!という図式だったのではと思っています。

一番最後の「困る」のは「娘が」ではなくて「自分が」ね。

 

私も親に負担をかけては申し訳ないと、銀色のワイヤーが丸見えの一番安いコースにしたけれど、それでもかなりの額がかかったはずです。

 

でも娘は結婚もしないどころか、1人で家を出て行ってしまいましたねw

母の「投資」は、失敗だったということ。残念でした。

きれいな歯並びを手に入れさせてくれたことだけ、感謝してますw

「毒親であること」を認める作業とは

私が学生の頃なんかは、今ほどネットが普及していなかったので(いわゆる、閲覧し過ぎると「パケ死」する時代)

知りたい情報が一瞬で、いくらでも探せる今は何て便利なんだろうと思います。

なので、何でもすぐネットで調べるし、ネットで見たことをすぐ鵜呑みにします(笑)

 

そんな私ですが、毒親のことを調べ始めた頃、母の変だなと感じるところがだいぶ「毒親」の項目に当てはまっててても『いや、違う。毒親ではないと思う』と思っていました。

そう思いたかったのです。

『あんなに変なことさせられたり言われたりしていたの、うちだけだったんだろうな』と本気で思っていたし「毒親」と表現するのは何て言うか「最終手段」みたいな気があって、なかなか認められずにいました。

親をそういう風に思う自分のことも責めましたし。

 

けど、どれもこれも嫌と言うほどあてはまっていて、他にも似たような変な親を持つ人もいることもわかり、毒親認定をした訳です。

認めてからは楽になったけど、認めるまではとても苦しかった。

 

私のようなことを発言すると「親のせいにするな」と世間からは言われがちだけど

言ってる側からしたら『本当はこんなこと、思いたくもなかったし、言いたくもなかったよ』って話で

「親のせいにするな」とか以前に、自分の実の親にそんな疑いをかけないといけないことの方がよっぽど問題だし、辛いことだと思います。

 

 

母の言動は軽く見積もっても「精神的虐待」「言葉の暴力」だったなと思います。

 

親に限らず、暴力を受けて消えない傷跡が残ったとしたら、よほど、致し方ない理由でもない限り、その傷跡の責任は「暴力をふるった相手」にあるのだと思う。

母が精神的に相当私を追い詰めたことも事実で、それで心が傷付いたのなら、前述の暴力と同じ原理なんだと思います。

けれど、なぜかその責任の所在を問うことに、世間の目は厳しい気がします。

 

私は『こういうことができないのは、全部親のせいだ』ということを言いたいのではなく『なぜ、こんな風になったのか、ルーツが知りたい』だけで

その中で『やっぱりあれは母のああいう態度が原因なんじゃないか』と思うのは、ただ親のせいにして自分の態度を顧みてない訳じゃなく、原因を調べて、じゃあこれからはどうすれば良いか?を考えたいだけです。

ここの線引きができないから、親を毒親と思う自分を責めていたのではと思います。

 

 

自分にも『言われても仕方ないよな』という部分でもあれば納得もいくけど

あれだけ利口にしてたのに?

あれだけ気をつかっていたのに?

まだそんなに、何がだめだったの?

という疑問がどうしても残ります。それほど、親には従順にまっすぐな気持ちで向かい合ってきたので…

 

 

「喧嘩両成敗」ともよく言うけど

それはあくまでも互角の戦いの場合であって、明らかに力のある者が、弱者をやり込めるのはもはや「喧嘩」ではなくて「いじめ」だと思うし

私が成人してからの母とのバトルは、お互いさまな部分も多々あるかと思いますが

幼い子ども相手に、あんなに酷いことを言ったりしたりしたことはやはり「いじめ」に等しいと思うのです。

 

母が『(明らかに理不尽だけど、とりあえず)言うことを聞かなければ、育ててもらえないんじゃないか』という子どもの純粋な気持ちを逆手にとって、罵詈雑言を吐いたことは親であろうがなかろうが「いち大人として」いかがなものかと思います。

 

自分の親が毒親?と思うけどなかなか踏み越えられない人がもしいたら、とにかく自分のされて嫌だったことを思い出し、それが本当にしつけや子育ての上で必要なことだったのか?筋は通っていたのか?本当に子どもの為を思ってやっていたのか?など、ひとつずつ紐解いて行くのは有効だと思います。

 

親のせいにして終了。でなく、ルーツを探るということであれば、それはすごく前向きな作業だと私は思うからです。

 

毒親育ちの方は皆真面目で、優しい人が多いと感じます。

だからこそ、自分を責めたまま、自分の心を蔑ろにして生きてほしくないと思います。

「ハードルが土に埋まっていた」お話

あるテレビ番組で、モデルさんと結婚された芸人さんが話しているのを聞いて妙に納得したことがあります。

 

番組のレギュラーメンバーは皆「何であんなにきれいな人と結婚できたの?」といじり半分で芸人さんの話を聞いていましたが

芸人さん曰く、妻であるモデルさんはそれまで付き合った男性が問題アリな人が多く、聞いてたらそれちょっとDVやろみたいなエピソードもあり、その芸人さんが「だから、僕にとってはごく当たり前のことが彼女にとっては驚くほど優しくて、いい人!みたいになったらしい」とのことでした。

 

奥様が男性に求める「優しさのハードル」が芸人さんにとってはごくごく当たり前のことで「初めからハードルがなかった。むしろ(ハードルが、土に)埋まってたからさ、普通に歩いてるだけで(ハードルを)跳んでたみたい(だからこんな俺でもよかったんだろうねー笑)」と、自虐も混じえて話していましたが

 

「ハードルがそもそも土に埋まっていた」という表現がすごく深いなーと。

 

私は、すぐにキレたり暴言を吐く母と暮らしていたので、それが当たり前だと思って戦々恐々と社会に出ましたが、家の外の方が何て平和で、皆優しいのだろうと痛感せずには居られませんでした。

 

昔、まだ母を尊敬していた頃は、母の「もの言いはきついけど、母さんにはハートがある。根は優しい!」という自画自賛の言葉を鵜呑みにしていたけど

残念ながら、もの言いも優しくて本当に中身も優しい人が外の世界にはたくさんいました。

例え根は優しくても、表現方法があれくらい乏しいなら「優しさ」と表現するには甚だ疑問だし

相手が『(きつい言い方が)嫌だ』と主張しても、自分を顧みず「私は私」と我を通すことが果たして「優しい」と言えるでしょうか。

 

社会へ出てみると、失敗したってなじったり貶したりでなく今後どうするか防ぐにはどうすればよいかを前向きに話し合える人も

イラッとしてるだろうなと思っても顔に出さず、皆の意見を尊重しようとしてくれる人も

謝ったりお礼を言うのはむしろこちらなのに「ごめんね」「ありがとう」を何気なく言える人もたくさんいたのです。

 

よく「どういう育てられ方したのか」とか「親の顔が見てみたいわ」とか

悪い意味で使われますが、私はむしろ逆の意味で不思議に思う人にたくさん出会って来ました。

 

それとともに、自分の家がいかに殺伐としていたか思い知り、悲しくなりましたが

tari97.hatenablog.com

殺伐としていたからこそ、今、人の何気ない優しさも涙が出るほど嬉しかったり、思いやりに気がつけたりするのかも知れないとも思います。


前出の、芸人さんにとって当然のことが彼女にとっては神のように思えたことと似ているかも知れません。

 

家にはたくさんあったハードルが、外の世界には、あっても飛び越えられる低さだったり、それこそ土に埋まっていたり、だった訳です。

 

飛び越えなくてもいいようなハードルを必死に飛び越えてきた(しかも家庭内で)労力と時間を思うと悲しくもなりますが。