あるテレビ番組で、モデルさんと結婚された芸人さんが話しているのを聞いて妙に納得したことがあります。
番組のレギュラーメンバーは皆「何であんなにきれいな人と結婚できたの?」といじり半分で芸人さんの話を聞いていましたが
芸人さん曰く、妻であるモデルさんはそれまで付き合った男性が問題アリな人が多く、聞いてたらそれちょっとDVやろみたいなエピソードもあり、その芸人さんが「だから、僕にとってはごく当たり前のことが彼女にとっては驚くほど優しくて、いい人!みたいになったらしい」とのことでした。
奥様が男性に求める「優しさのハードル」が芸人さんにとってはごくごく当たり前のことで「初めからハードルがなかった。むしろ(ハードルが、土に)埋まってたからさ、普通に歩いてるだけで(ハードルを)跳んでたみたい(だからこんな俺でもよかったんだろうねー笑)」と、自虐も混じえて話していましたが
「ハードルがそもそも土に埋まっていた」という表現がすごく深いなーと。
私は、すぐにキレたり暴言を吐く母と暮らしていたので、それが当たり前だと思って戦々恐々と社会に出ましたが、家の外の方が何て平和で、皆優しいのだろうと痛感せずには居られませんでした。
昔、まだ母を尊敬していた頃は、母の「もの言いはきついけど、母さんにはハートがある。根は優しい!」という自画自賛の言葉を鵜呑みにしていたけど
残念ながら、もの言いも優しくて本当に中身も優しい人が外の世界にはたくさんいました。
例え根は優しくても、表現方法があれくらい乏しいなら「優しさ」と表現するには甚だ疑問だし
相手が『(きつい言い方が)嫌だ』と主張しても、自分を顧みず「私は私」と我を通すことが果たして「優しい」と言えるでしょうか。
社会へ出てみると、失敗したってなじったり貶したりでなく今後どうするか防ぐにはどうすればよいかを前向きに話し合える人も
イラッとしてるだろうなと思っても顔に出さず、皆の意見を尊重しようとしてくれる人も
謝ったりお礼を言うのはむしろこちらなのに「ごめんね」「ありがとう」を何気なく言える人もたくさんいたのです。
よく「どういう育てられ方したのか」とか「親の顔が見てみたいわ」とか
悪い意味で使われますが、私はむしろ逆の意味で不思議に思う人にたくさん出会って来ました。
それとともに、自分の家がいかに殺伐としていたか思い知り、悲しくなりましたが
殺伐としていたからこそ、今、人の何気ない優しさも涙が出るほど嬉しかったり、思いやりに気がつけたりするのかも知れないとも思います。
前出の、芸人さんにとって当然のことが彼女にとっては神のように思えたことと似ているかも知れません。
家にはたくさんあったハードルが、外の世界には、あっても飛び越えられる低さだったり、それこそ土に埋まっていたり、だった訳です。
飛び越えなくてもいいようなハードルを必死に飛び越えてきた(しかも家庭内で)労力と時間を思うと悲しくもなりますが。