もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

家族に偉そうに接してきた人の末路

この間、母と会ってきた。

少し前にも会ったけれど、その時は少し顔を出した程度で

今回は結構長い時間会って(もちろん、2人では避けているので姉・姉の旦那さん・途中から姪も加わり)

 

とにかく、会う度に母のことが嫌いになります。

嫌いになると言うか…『何なの?』って気分になる。腹が立つというか…本当に残念な気分になる。

 

母は、趣味もなく、1人で暮らして話し相手もいないので、正直頭の回転が相当遅くなっていると思います。このままじゃ、認知症とかも十分あり得るのではないか?というくらい、とにかく話を処理できていない。

 

今の母の姿、

自分の生きる道を「家族」にのみ頼りすぎたけど、頼みの綱のその家族からも嫌われた、その結果がこれです という、いい例かと。

 

で、なぜ、今回集まったかというと

今母が所有している車が2台あるのだけど、大きすぎてそんなに使わないので下取りに出して1台いざという時、私でも運転できそうなやつを買おうか?という話になっていて

もう、時間もそうないので車種も決め打ちで、営業も姉が知っている方にお願いして行ったのだけど

 

同じ車種の中でも少しずつタイプ(グレード)が違いますよね。

とにかくそのグレードの違いが全く理解できないようで(どこがそんなに難しいの?って感じなのですが)

『こんな簡単なこと、何回言わせるの?』って何度も言いかけました。正直、物覚えの悪さにドン引きしました。

 

一般的には、ここで『お母さんも年取ったなぁ』『しゃーないなぁ』と、感慨にふけるのかも?慈悲深くなるのかも?知れないけれど

「わからない」と言う母に、どうしても『はぁ?』って思ってしまうのです。

 

今まで

「わからない」と言う私に、どれだけ偉そうに言ってきた?

娘が興味のないことを、無理矢理やらせて同じ目線でやらなかったら、どれだけ偉そうに言ってきた?

 

子どもが同じことを言ったとき、あなたはどうやって返してきた?

何が「わからない」「頭に入らない」だよ!?ふざけるなと思ってしまう。

 

年寄りだから許されると思ってるのかな?

だとしたら、もっとふざけるなと思う。

幼い私に向かって、どれだけわからせようと、偉そうに言ってきた?

 

そういう気持ちがぐるぐる。

帰るとどっと疲れて、当分会いたくなくなります。

 

 

年末に体調を崩し、10キロほども痩せた母。

その姿を見ても、何も思いません。

それどころか、結構手のかかる治療までやって生き長らえようとする母に、まだ生きるつもりか?と思ってしまう。

かわいそうなんて1ミリたりとも思えないです。

娘はそう思っています。

 

これが、家族に偉そうに接してきた人の末路じゃないかな。

(また話題のドラマに、かけてみました)

 

母の日に、こんな記事

皮肉ですね(笑)

その「我慢」は、本当に必要なのか

今まで職を転々としてきましたが、その度に母には「我慢が足りない」とか「どこに行っても同じだ(さほど大差ない)から、続けろ」など、転職を踏みとどまるようなことを言われてきました。

 

結局、転職の道を選んだ者の意見としては、どこに行っても同じでは全然なかったし、我慢は確かに付き物だけど種類や割合が全然違うので、それを一括りにするのもいかがなものかと思います。

すごく屁理屈に聞こえるかも知れないし、転々としている自分を擁護しているようにも取られるかも知れないけれど

一般的に「我慢」とされることでも自分には全く平気な場合も、またその逆もあると思うのです。

 

母の世代のひとたちは、生き方の「正解」というか「お手本」みたいなことがわかりやすく決まっていて「結婚して、子どももできて、家建てたら一人前!!」みたいなことを未だに言ってる人がいますが

それだけ昔は目に見える「成功のかたち」の選択肢が少なかっただけなのでは?と思います。

だから、できる「我慢」もみんな同じという考えで、母もそれを押し付けて私をこき下ろしていたのだと思います。

tari97.hatenablog.com

 

もちろん昔ながらの考えを否定する訳ではないし、そうしたい人はそうすればいいし

私には合わないだけの話で、合わない人もたくさんいると思います。

 

母のような世間知らずな人の「とりあえず我慢することが美徳」みたいな考えは全然建設的には思えないし、経験もないのに「どこも同じだから」と決めつけるのも、今思えば参考にすべき意見ではありませんでした。

 

特に母においては

色んな経験をして、世の中の酸いも甘いも知り尽くしているみたいな人だったならば、参考にしたくもなるけど(あれだけ偉そうな態度でも)

料理と金のこと以外、ほとんど何も考えずに「我慢!我慢!!」だけで

うまい息抜きの方法もわからず、結果家族に当たり散らしていたとしたら「料理」や「金」が家族の為であったとしても本末転倒だと思うし、ともに生きる人にも大変迷惑です(実際迷惑でした)

 

あの一戸建てに住むのは、うちの財力では無理があったのでは?

車を何台も所有する必要性は本当にあったのだろうか?

母の「我慢」は、本当にしなくてはいけない「我慢」だったのだろうか?

そこのところが、気になって仕方ありません。

 

その日暮らしで、ちゃらんぽらんに生きようということではなくて

今している我慢が「必要な我慢」なのか「しなくても良い我慢」なのか

その我慢のせいで、ギスギスしてどうしようもない気持ちがあるなら、一刻も早くやめる方向へ考えた方が身のためではないか?と、思う訳です。

 

そう簡単にやめられない事情があるのもわかるけれど、人に対する態度の「ありえないレベル」をとうに超えていた母を思うと、その「我慢」さえも無意味だったとすら思ってしまうからです。

その「我慢」のはけ口となっていたのではないか?と感じている私が、今切実に思うことです。

ACの特徴?テスティングなのか??

幼い頃、時々『何であんなことしたんだろう?』というような悪いことを平気でやっていました。

警察のお世話になるようなことでも、人を傷つけるようなことでもなく、本当に「子どものちょっとしたいたずら」なんですけど(それでも、何回かは学校の先生には叱られた)

 

1人でやることもあったし、一緒に友達もいる時もあって、そういうときはこの子が先生なり自分の親なりに言いつけるだろうなとも思ったけど、時々湧き上がるそういう『悪いことをやっちゃえ!』みたいな感情に、勝てませんでした。

 

『悪いことをしている』という自覚もあるし、わりと冷静に『先生や母に怒られるかも』という恐怖もあったのだけれど「どうしてあんなことしたの?」と後で聞かれても何でやったか本当にわからなかったし『そこまで悪いことでもないやろ。別にいいやん』みたいな気もありました。

  

よく思い出すと全体的に「怒られるとしたら、家族以外の他者」であるものをターゲットにしていました。

あとは、誰も見てなければ特定とかされないやろ。みたいな気もあったし。

 

前にも書いたように、実際母って学校が嫌いだったし、先生のことも敵視していて

tari97.hatenablog.com

母は自分に被害が及ばないことには本当に興味のない人間なので、たまに外で悪いことをしてバレたとしてもそこまで怒られず「けったいな(変な)ことする子やなぁ」って感じで終わったし、父が適当に「たいしたことないわ」みたいに言うと、母は父を崇拝しているので「ほんまやな(笑)」で終わっていました(うちの親、やっぱりちょっとおかしい気が)

 

先生には結構叱られたけど、それについては家ではこんな感じであっけなく終わったということが多々あって、ある時から内心『お母さんが怒ってなかったんやから、たいしたことない』みたいに思うようになって「先生」というものに相当ナメた態度を取っていました。

 

この感情の移り変わりって、一体何だったのかな?と最近考えていて

 

こういうことがある度に『やっぱり、お母さんはそこまで学校のことでは怒らなかったな』というのを、どうも「試す」みたいな感覚があったなと。

 

これを最近検索してみて、ACの特徴で「テスティング」というものがあることを知りました。

 

相手を困らせる言動をわざとして、自分に対しての愛情を測る行動。

 

それかどうかははっきりとはわからないけど、そうかも知れない?

 

もちろん、家では必要以上にビクビクして生きているから、悪いことをわざとしたりはしないけれど、自分の中で『これは、大したことにならないな』『きっと、お母さんはこんなことでは怒らないはず』と見極めて、そのギリギリのラインの「悪いこと」を外で探しては実行していたような気がします。

 

実際、母に怒られなかった時の心情は『よかった』という感じよりかは『ほらね、お母さんはこんなことでは怒らなかった』という安堵感というか…そんな感じを抱いていました。

 

私はずっと母には無償の愛で愛されていると思っていたけれど、無意識レベルでは『愛されている』みたいな実感を求めていたのかもしれません。