もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

「心配しすぎ」について

こちらの記事を何かでたまたま見つけて読み、母の子育てにおいての最大の失敗とも言える「心配しすぎ」について、考えました。

首が取れるくらい、読んでて頷くことばかりでした。

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  • 「心配しすぎ」の傾向があると「指示」「注意」「禁止」が多くなる

母はまさにこれでした。

これまでにもたくさん書いてきましたが、何でも上から目線で命令し

「こうしてみたら?」「こっちの方がいいんじゃない?」等、相手に選択権を与えるような言い方は絶対にしませんでした。

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「こうしなさい」「(どんな些細なことにも)気をつけなさい」「それはするな」

基本的に相手におうかがいを立てるというニュアンスのものの言い方が備わっていませんので、全てが命令・指示・禁止口調になるのです。

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  • 子ども自身も、心配性になり、指示待ち傾向が強くなり、他責的になる

私自身、ものすごく心当たりがあります。

学校の行事等でもいつもトラブルやハプニングを心配して心から楽しめず

大人になっても相手の為に何かをすることがかえって迷惑になるのでは?と考えると自発的に行動する勇気が出ないのも、これが原因ではないかと考えます。

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  • 心配とは「慎重」とは違う

「娘のことを心配している」と言えば、一見聞こえは良いですが

その「心配」は、ここに書かれているように「失敗をむやみやたらに怖れ、子どもの挑戦を阻止し、先回りして解決しようとする行為」であり、母はまさにこれでした。

芽が出ても母の裁量で勝手に摘まれてしまうのですから、そんな子が花の咲かせ方が身につくと思うか?という記事は前にも書きました。

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過剰な心配性は「臆病、事なかれ主義、他者依存、他責」

ひいては他人に対し「指示・支配的、聞く耳をもたない、失敗を責める、挑戦を馬鹿にする」

こういった傾向を強めるだけともありますが、まさに全てがあてはまる母。

特に他人に対しての行動はまるで母の特徴を羅列したかのようです。

 

  • 子どもを「所有物」「私物」化しているから、心配性になる

1人の自立した人格であることを認めず、自分の思い通りに動かそうということばかり考えるのは、傲慢以外の何でもないと私は思います。

更に「親だから」とか「育ててやってる」「こんなに苦労している」を武器に主張し、子どもに罪悪感を抱かせるため、毒親はたちが悪いのです。

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私は、母の過剰な心配については、結局「娘を信じるだけの心の余裕がなかった(小さい人間だった)」ということだと認識しています。

 

私が何かを身につけようとしたって、母にとって必要のない・都合の悪いことは「出る杭」としてここぞとばかりに打たれ、その度に『信用されていないのだな』と私の心は何度傷ついたかわかりません。

 

歌の歌詞とかでも「信じることの大切さ」を歌ったものがごまんとありますけど

あながち間違いでもないのかも。

 

この、母が「娘を信用できなかった」ことに関してはまた関係したことを書きたいと思います。

 

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こういうのが「老害」の始まりなんだろうな

前にも書きましたが、私は毎日バスに乗ります。

そこで、横入りをするのは大体母の世代以上の人だというのは前にも書きましたが

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最近、もうひとつ思うことがあります。

 

最近では、走行中、バス停に着いて停車するまで席を立たないでくださいと、再三注意が呼びかけられています。

私は高校生の時もバスを利用していましたが、ここまでバス会社が注意を呼びかけていた記憶はないし

自分の降りる停留所付近になると早めに立ち、すぐに降りられるようにと思ってそうしていました。

しかし最近になり、バスに再びよく乗るようになると、かなりうるさく「停車するまで立たないで」ということを言うのだなぁと感じました。

実際、みんなあまり前もって立ったりせず、ゆっくり動いている印象があります。

 

まぁ、最近は転んだりすると、自分の不注意なのにバス会社にイチャモンつける人とかもいそうだからそうやって予防線を張ってるのかな?という気もしなくもないのですが(笑)

 

それで思うのが、停留所付近になるとまだ停車していないのに立ってウロウロするのもまた、母の世代以上の人なんですよね。

あれだけしつこく、注意書きの紙も車内に貼られ、電光掲示板でも呼びかけ、運転手もアナウンスしているのに、です。

『立つなって言ってるやん…注意されるよ』と思ったら、案の定。

「危ないから、立たないでください!」と運転手に半分怒られるように言われてる人も。

 

確かに昔はそうやって、停留所に着くまでに降りる準備をしておくのが「きちんと」だったのかも知れないけれど

今はバス会社が「立たないでほしい」と、何ならお願いをしている訳です。

こんなにモタモタしてるから時間通りに来ないんやろな~とも思うのですが、バス会社としてもそれでも(たとえ少々遅れたとしても)「着いてから立ってね」「ケガする原因になるからね」なんだから、ゆっくり降りたらいいと思うのです。

なのに、立つ人(必ずと言っていい程、お年寄り)の多いこと。

 

私も、元来せっかちなので、混んでいると早めに立たなきゃ!とどうしても思いそうになるのですが

「停留所に着くまで立たないでほしい」というバス会社の風潮に、いわば " アップデート " をした訳です。

 

この間母に会った時に『何せ母さんの年代って頑固な人多いよね』という話から、この話を母にもしました。

すると母はこう言いました。

「自分たちの時代は停留所に着くまでにさっと立って停車を待つくらいするのが当たり前のマナーだった。

それを " 着いてから立ってね " と言われるまでの期間が長すぎたから、なかなかできないのだ」と。

それで、つい立ってしまう同年代の人の擁護を、必死にやっていました。

要は

アンタ達はわりと若い時にそういう風潮に変わったから柔軟に対応もできるだろうけど

もう人生の半分以上をそうやって過ごしてきたものを、今さら「はい、そうですか」なんて変えること、簡単にできない!(だから、仕方ない。目をつぶれ)

だそうです。

 

あの…それって

「できない」じゃなくて「やろうとしていない」だけじゃないです?

 

変わるまでの期間が長かったからさぁ。

今さら言われたってできないよ。

を免罪符に、やろうともしてないだけじゃないですかね?

言ったら悪いけど

こういう思考こそが老害の始まりなんじゃないのかな。

 

今の若い子たちは「ゆっくりでいいよ、ケガだけしないでね」が当然の時代に生まれ育っているけれど

私の学生時代は、まだそれはスタンダードじゃなかった訳で(降車ボタンを押しても、モタモタしていたらさっさと発車されそうなくらい、もう少しピリピリしていたのも事実)

今の風潮と比べたら、私だって『今までのやり方こうだったのだけどな?』と思う要素はあります。バスの件以外にも、たくさん。

 

けれど『今はこうなんだな』と思えば、少々の違和感があったとしても当たり障りのない方へアップデートをするように心掛けています。

(大体が、取るに足らないような小さいことで、わざわざ肩肘張って主張するようなことでもないので)

 

このアップデートを、あれやこれやと言い訳して正当化して

やろうともしないその精神こそが「老害」の原因なのではないですか??

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もちろん、母と似た世代の方でもアップデートがスムーズにできる人もいます。

 

私の母は、しょーもないことでもいちいち「でもね」「だけどね」と、何とか自分(と、同世代の人)を擁護して、正当化するのに必死で

完全に「老害」と揶揄されるタイプの人間なのだろうなと実感した次第です。

 

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生まれ変わったとしたら

最近、昔自分はどんな気持ちで、どんなことを考えて生きていたかなぁ?と、よく考えます。

「昔」と言っても、子どもの頃のこと、大体が学生時代から20代にかけて生きるのが一番しんどかった頃のことなど色々です。

 

前にも書きましたが、私は10代後半~20代という、人生の一番輝ける時期を

母に捧げ、母の言いなりになって、自分が何者であるかもよくわからず

ただ何となく毎日を生きていたことが、どうしても悔しくてやりきれません。

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その頃、私はよく、家の窓から遠くに見える道路のテールランプをじっと眺めたり

ある時は遠くに見える大きな橋のイルミネーションが23時に消灯されるので

そのイルミネーションが消える瞬間まで、窓際に腰掛けて、消えたら寝るというのをよくやっていました。

それから、昔から流れる水を見るのが好きで、たまに1人で家の近くの川を見に行ったり

これは小学生くらいの頃の話ですが、学校の帰りに水の流れる水路を見ながら帰るのも好きでした。

水が次から次へとなみなみと流れる様子をずーっと見るのが好きでした。

 

当時はそんな自分を『暗いな』くらいにしか思っていなかったけど

最近そんなことは全くしないし、あれって一体何だったのだろう?と考えていました。

 

それで何となく思い出したのですが

車のテールランプとか、街の明かりとか、川に流れる水とか

そういう「感情を持たないもの」の気持ちって、一体どんななんだろう?

(感情がないから、気持ちもないんだけど、自分があれになれたら、ラクなのだろうか?みたいな感情)

と、考えたりしていました。

 

光は輝きを放つことに、水は流れることに

いちいち苦しさも感じないまま、消えていきます。

生きるのがしんどすぎた私は「感情を持たないもの」に、憧れがあったのかな?

その「刹那」な感じが、羨ましかったのかな?と、今になって思います。

 

思えば幼い頃も、虫や動物に対しても、よくそういったことを考えていました。

 

虫って、わざわざ生きることにこんなに苦しい思いしないのだろうなぁとか

動物は何も考えないで生きているのだろうなとか(公園のハトとか)真剣に考え

いや、でも人間っていう恐ろしい敵がいるし、生きるためにもっと必死な思いをしている動物もいるよな。優しい人に飼われたペットならまだしも…等と考え出すと

結局虫や動物もしんどいやん!と思い

じゃあ、植物は?と考えるのですが

植物だって「咲く」「育つ」という目的があるし、外敵も多いから、しんどそう…

じゃあ、まず「生き物(植物も)」は、嫌だな~

次に生まれ変わったら、いっそのこと「感情を持たないもの」になりたいなぁ~

と、そういうことを、延々と考えていた記憶があります。

(マジで暗い子どもです)

 

昔、10年くらい前かな?

室井佑月さんが本を出版して、その一文にこんなものがありました。

 

" 息子を産む前はね、早く死にたいと思ってた。あと何回食事をして、トイレに行って、お風呂に入って…と電卓をたたいてたの。

いま? 長生きしたいというより、息子のために正しく生きたいって思うようになったかな "

前半の一文が、当時『すごくわかる!』ってなった記憶があり、この言葉は私の頭の片隅にあって(子ども云々は私には関係ないです)

辛いことや苦しいことがあると必ずこの言葉を思い出します。

 

あと何回、こんな思いをしなきゃいけないのだろう。

毎日毎日、化粧して、電車乗って仕事して、ご飯食べて、風呂入って寝る。

 

私は別に生きることに輝ける希望がある訳でもないし、ただ『あんな親のせいで、死ぬ道を選びたくない』と思って逃げてきただけで

結構人生詰んでるのは自覚しているし、ただひとつ、自分を大切にして生きようということだけを目標に生きているだけです。

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そんな中で、もし生まれ変わったとして私は何になりたいか考えたけれど

とりあえず人間としてもう1度生まれて、性別も肌の色も何でもいいけど

あの親のもとにだけは生まれたくはないな、という結論に至りました(笑)

 

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