もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

喜んでもらえたという成功体験

ある芸能人が、例えばおいしそうなものをもらったとして1つしかなかった場合、パートナーにももう1つ同じものを買って一緒に食べたいと話していました。それを聞いた友達も「私もこの人と同じ感覚やわ」と言っていました。

一方、私はと言うと全く共感ができず『それ、押し付けにならないかなぁ』『買ってこられる側ならいらなくても食べなアカンよなぁ』とか思っちゃうんです。ひねくれてますよね。

自分がそんな風にしか思えないものだから、人にも何かをあげたり、極力しないんです。食べ物に関しては、元々食に興味がなく昔から少食で姉とも何でも半分こでも満足できるという性質も特に影響してるとは思うのですが。

 

気軽に差し入れをする人、職場の休憩中にみんなの飲み物を率先して準備してあげる人。前も書いたけど、私はそういうことをするのがすごく苦手。

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あれだけ、母の顔色を窺って生活してきたので、こうしたら喜ぶかなとか場の空気を読み、考えることはできるのだけど、いざそれを行動に移すとなると途端にできなくなってしまいます。

姉も昔、母によく「あんたは気を遣う割に気が利かんな」とバカにされていたけど…少なからず何かをした時の母の娘への対応がそうさせている部分があるのではないか?と。

 

気を利かせたつもりで何かをしても、母はあくまでも要・不要だけを判断するので " それは今不要だったけど、やってくれたことに対してありがとう " がありません。

不要だった場合、ありがとうどころか「そんなもん、今いらん」となるんです。

人に何かをしてあげるということが頭に浮かんではいるけど行動できない理由はおそらくこれが原因ではないかなと。

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仕事などで何かをこちらがした時にも、わざわざ『間違えてたら言ってください』と言うとか、毒親育ちの友達が過剰に「不要なら捨てて」と言っていたことも書きましたが

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やったことが不要だったら、やったこと自体を否定される環境に置かれていた人は往々にしてこういうことを口走ったりそういう思考になってるんだと思います。

 

逆に何かしてもらったり、いただいたりして、不要なものでも断れないのもあるあるです。

母は自分のやることは相手のニーズに合ってなくてもやってあげた事実を褒め称えないとキレます。

友達とかにこれ食べる?とか言われた時、断ってもいいものかどうかをものすごく悩むのは、家で母親に「いらない」とでも言おうものなら「何や、せっかく買ってきたったのに」と、また地雷を踏むきっかけになりかねなかったからでしょう。

これもうちの母がおかしかっただけ、と言い聞かせ最近は断るのも練習だと思うようにしているけれど…。

 

子が親に何かをして、それがたとえ不要なことでもやってくれたことに対してありがとうと声を掛けてもらえるということ。それはつまり、一人の人間として尊重されているに等しいことだと思います。

それがある種成功体験として、培われるものが絶対にあると思います。うちにはそれがなさすぎました。

母は口では「尊重してた」と言うけど、あれは尊重している相手に取る態度ではないです。


さらりとそういうことができる冒頭の芸能人も、共感している友達も、健全に育てられた証拠ではないかと考えると、何とも虚しい気持ちになります。

自分を肯定したい気持ちはわかりますが

前にある動画で「マウントを取る人の特徴」というのがあり、その中に「 " 自分はこれでよかったんだ " というのを確かめるためにマウント取る方がいます」というのを見たことがあります(出典がわからずすみません)

 

私にモラハラをしていた元親友Mにも『あ、今マウント取ってるんだろうな』と思うことが時々ありましたが、大体理由のわかりやすいことでした。

例えば、たりは独身だから~とか、うちはお金あるから~とか。

人によって羨ましいとか妬ましいの基準が違うのだから、自分がマウントを取ってるつもりでも相手に必ずしもダメージになるとは限らないという記事を以前書きましたが、まさにこれで

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多分マウント取ってるんだろうなと思いつつ、私は結婚願望もないし、当時は仕事もメンタルの関係で満足にできておらず、その割に所謂オタクでもあり、お金がないことは当たり前だと思ってたので、別に言われてショックでも何でもありませんでした。

 

でも、これとは少し違う『それを今わざわざ言って何になるん?』という不可解な言動もあって、その多くはMと関係を断ってから『もしかしてあれもマウント取ってたんかな』と気が付きましたが、マウントを取るという言葉の意味を調べてみると「周りや相手に対して自分の優位性をアピールすること」「自分の方が上の立場であると周囲へ示すこと」とあるので、そう考えると、Mが私に言ったりやったりしていた不可解な言動が「マウントを取る」に直結していないのでは?とも、思っていました。

 

前に私に「あなたの父も立派な毒親ですね」というコメントを送ってきた人がいました。

私はこのブログで父にはもう少し助けてほしいこともあったけど、父自身が毒親だったとは書いていません。あの両親に育てられた人は私と姉しかおらず、その当の本人が父は毒親とは思わないと書いているところに、なぜこんなことを送るのだろう?ずっと不思議でしたが、その反面『おっ!この感じなつかしいな』とも思いました。Mが時々やっていた『それを今わざわざ言って何になるん?』にそっくり!と思ったから。

 

その後に冒頭の動画を見て、やっとピンときたんです。

 

おそらく、そのある種失礼なコメントもMの不可解なマウント的発言も自分にはこういうことが言える感性があるんだということで自身を肯定したい気持ちの表れなのではないかなと。

 

自分の素直な気持ちに嘘をついたり、蓋をすることは苦しいことです。しかし、自分の素直な気持ちを認めることもまた苦しく、更に時には世間では格好悪いこととされる時もあります。

親を毒親だ、と認めることもその1つだと思います。

自分の親を毒親なんて…みっともないのでは…私も昔はそう思っていました。

 

誰も好き好んで毒親であるとか、機能不全家族であると言ってる訳ではないし、こんなブログで心の逃げ道を作らないといけないなんて情けない限りですが、自分の思いを噓偽りなく発信していることには誇りを持っています。

そんな私に、配慮に欠けた言葉(大きなお世話やな!な一方的なジャッジ←これ、Mもよくやってました)を投げずにはいられない、それはつまり、素直な気持ちを認められずにいる自分を、逆のことをやっている他者を否定することで肯定しようとしているのではないでしょうか。

 

他者を否定したり失礼な言葉で攻撃して「自分はそんなことを思う人間ではないのだ!!」と優位に立たせている、と考えれば、動画の「 " 自分はこれでよかったんだ " というのを確かめるためにマウント取る方がいます」も合点がいきます。Mのやっていた不可解な言動も多分これ。

 

こういうことを注意されると「ただ感じたことを言っただけ。他意はない」と言う人がいますが、それはそれでデリカシーがないので、他にも自分の配慮に欠けた言動で人に迷惑かけてることがないか、見直した方がいいですね。

マウントをわざと取っているより、無神経でタチが悪いですから。ちなみに母はこっち側の人間です。

 

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あの親(祖母)にしてこの子(母)あり

母がよく語っていた話を思い出しました。

 

母が子どもの頃、貧しいためにおもちゃ等ロクになかった家で、1体だけアニメキャラのよくできた人形があったそうです。

母はとても気に入っていたのに、ある日母の母親(私の祖母)がよその家の子に勝手に人形をあげてしまったそう。

もちろんあの母の母親のことです。母が泣いて訴えても「あげて何が悪いねん」「あげてもたもんしゃーない」「いつまでもしつこい」等と実際に言われたそうです。

その時、将来子どもができたら子どもの持ち物を勝手にあげたり捨てたり絶対にしない!と母は心に誓ったそうです。

 

実際、母に勝手に私物をどうこうされたことはないし、子どもの部屋を家探しする毒親も多くいる中、そこはまともでした。

 

「なぜ、子どものものを勝手に捨てたりしてはいけないのか」と問うと、多分母は「自分が悲しかったから。だからしない」と答えると思います。

確かに間違いではないのですが…母の場合その悲しみの中身が " モノがなくなった事実 " にしかフォーカスできてないな、と感じます。

 

娘の物を勝手にあげたり捨てることは確かにしなかったけど、私の好きなことや気に入っているものに共感したり、物を失くして悲しんでいる時に励ますこともまた、ありませんでした。

平気で人の好きなものとかタレントもdisるし、物を失くして悲しんでいても気持ちに寄り添うどころか、先ほどの祖母と全く同じニュアンスで「しつこい」「失くしたもんしゃーない」「ちゃんと管理してないアンタが悪い」となじります。

まさにあの親(祖母)にこの子(母)あり。

内容は違えど、やっていることは祖母と何ら変わりありません。

 

祖母が人形をあげてしまった話は、子どもにことわりもなく勝手にあげてしまったことはもちろんだけど悲しむ子どもの気持ちに寄り添えなかったことも大きな問題点だと思います。

だから母の子育ては、子どもの物を勝手にあげたり捨てたりしてはいけないというミッションをクリアしただけの事で、この話の本質まであと一歩足りない、そんな気がするし、母は万事がこうでした。

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とは言え、子どもの思い通りに全て聞き入れることもできないのもまたわかります。もしかしたら祖母は人形をあげないといけない、のっぴきならない事情があったのかも知れません。それならそれで「しつこい」とか「しゃーない」ではなく「ごめんね」と、そうなった経緯を説明するのが親としてすべきことだと思います。

 

母がこの件で傷ついたのは、人形がなくなったという物理的な事実による悲しさ、それに加えて親に悲しみに寄り添ってもらえなかったことも理由としてあったはずですが、結局母も後者は我が子に対して何もできていませんでした。

祖母と比べたら、物を勝手に捨てたりあげたりはしない、ある意味人として当たり前の部分ができるようになっただけで、マイナスがゼロになった程度です。それを母は「私はお母ちゃんみたいな冷たいこと、絶対にせん!」と主張し、良い親だと豪語していましたが…

 

「娘の物を勝手に捨てたりしない」ということと「心に寄り添えている」はイコールではありません。おそらく母はそこを混同しています。

娘の物を勝手に捨てたりあげてはないから、合格(=娘の心に寄り添うことと同等の対応ができた親!)と本気で思っています。

 

ずっと母の主張に対し腑に落ちなかった理由がやっとわかりました。

 

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