このブログでは、母への愚痴はもちろん、辛かったこと・嫌だったこと等自分の本当の気持ちを綴るとともに
母の「あれはおかしいのではないか」と感じた行動を振り返っています。
この作業は、確かに腹立たしいし、悲しいし、読む人が読めば胸糞悪いだろうなぁというのも承知の上ですが
その分確実に、自分がおかしいのではなかったのだ。やはり、おかしいのは母のほうだったのだ。という確信も持てる材料となりました。
前の記事では、母がグレーゾーンだったのでは?という部分を書きましたが
これがわかったことによって、私が母と接する上で一番嫌だったことが更に鮮明になった気がします。
何度も書きますが、母には「相手の気持ちを考える」という部分が見事に欠落していました。
「ワガママ」「自己中」
そんな人どこにでもいるとは思いますが、母の言動を振り返ってみると単なる「ワガママ」「自己中」では片付けられない気がしました。
なぜ、そんな簡単なことになかなか気がつけなかったのか、それについても考えて
母が「おいしいご飯を手間暇かけて作ってくれる」「家族が少しでも豊かに暮らせるよう、節約もするしそれなりの稼ぎがあった」等の部分は紛れもなく「家族のため」「娘のため」であったからで
「人のために何かができる人は、ワガママとは言わないんじゃないのか?」と、私自身も勘違いをしていたことに気がついたのは、ごく最近のことです。
確かに、おいしいご飯を準備してもらえることに、貧しい思いをしないことに、越したことはありません。
ただ、私はもう少し、娘が悩んだり、悲しんでいる時に「気持ちに寄り添う」「暖かい言葉をかける」そういったことを母にやってほしかった訳です。
それが、ハードルが高いのならば、せめて娘が「嫌だ」「やめて」とわかりやすく訴えることに関してくらいは、耳を傾けて欲しかった。
母の場合、そこの思考回路に一番問題がありました。
娘が「嫌だ」「やめて」と言う、その言葉の内には、どのような気持ちが込められているのか、そこがどうしてもわからない部分は人として大事な部分が欠落しているとしか言いようがありません。
『嫌だからやめて』の返事が、母はいつも「何で?」「ええやん、これくらい」
果たして自分が、周りの人が、母と同じ状況に立たされた時に、そんな返事をしているか
それをたくさん観察してきて、やっぱりそんなこと自分は思わないし、そんな返しをする人はほとんどいませんでした。
私も含め「相手が嫌・不快と感じているならば、相手の意見を聴き、何か改善策を」と考えるのが一般的で、それはそんなに無理難題でもないと思うのですが
母は最後まで(娘に愛想をつかされるまで)それができませんでした。
母の言葉の端々から「何で親が娘に気遣わなあかんねん」「親の言うことを黙って聞け」というニュアンスが感じられていたことも、ずいぶんと大人になってから気付き、横柄な態度はこれが原因だろうと思いましたが
そのもっと深くを探ると「誰が飯作ってると思ってるんだ」「どれだけ稼いで節約してると思ってるんだ」という自負が大きすぎるのだろうなぁというところまで辿り着きました。
ここまではただ単に母への恨みつらみばかりが募る一方でしたが
最近、昔から同性の友人が異常なまでにいない、人と接する上でも本音と建前の区別がつかない等という部分で、母に障害的な何かを感じざるを得なかった訳です。
(だからって、今までの言動を『仕方ない』なんて、断じて思いませんよ!)
そもそも、相手が嫌だ!と言うことに対して「なんで?」という返答がおかしいことに、私自身も長年気が付きませんでした。
何で?も何もない。
嫌なもんは嫌なんだ。
こんな簡単なことをわからず、自分の頭の中で勝手に回路を完成させて、娘に対しても的外れな対応しかできないのは正常とは言い難いと思うのです。
また、それに疑問を抱かず従っていた昔の自分も、悔しくて仕方ない。
更には、毒親の特性でもある「二極化思考」まで加わって
「なんで?」の前に「ルール違反も悪いこともしていないのに」「文句言われるようなことしていないのに」がくっつくから、余計母は自信満々だったのだと思います。
悪気がなけりゃ、何でも正直に言えばいいってもんじゃない。
母はよく自分のことを「裏表のない」とか「竹を割ったような」とか、素直な性格であることを自慢げに話していました。
私もすっかりその言葉に騙されていましたが、それは違うと思います。
そういう言葉を、良い意味で使っていいのは、他者の立場に立ち、物事を考えられる人、またもし不快にさせたとしても素直に「ごめんね」が言える人だけだと思います。
何で毒親に限って、自己評価だけは高いのでしょうね。
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