もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

威張りたかった訳ではないと言われても

母は「表現方法のまずさ」が「愛情をかけて一生懸命やったこと」より勝ってしまっていて、それが私が母を嫌いになった原因という記事を前にも書きましたが

tari97.hatenablog.com

母は、真面目で堅実で、その生活ぶりは確かに評価に値するものでしたが、とにかく家族に対しては自分の機嫌次第で感情をぶつけ、相手の気持ちなんかお構いなし、思ったことは全部自分が一番正しいが如く言い切り、思い通りにならないと不機嫌になって

そういうところが私にとっては、前述の「表現方法のまずさ」だと感じ、母の「真面目」とか「堅実」とか「良しとされる部分」より勝ってしまったために、私は母を嫌いになった訳です。

 

過干渉親を持つ人の中には自分のことを思って…と言われたがために、それを長い間愛情と思って疑わなかった。

けれどもそれを受け入れられない自分がいて、その葛藤に悩み、いっそのこと目に見える虐待をされたりして「親が嫌い」と堂々と言える環境に生まれたかったとすら思う人も多いでしょう(こんなこと思うほうがおかしいのは百も承知だけれど)

 

私は、母がなぜ嫌いでもない娘に対してあんなに酷い言葉をかけられたのかなぁということがどうしても解せず、ずっとその理由をこの数年探し続けて、ようやく母が「表現方法がまずかった」ことと、その原因もわかってはきました。

母が幼少期貧しくて悔しい思いをしたことや、母方の身内自体が相当ひねくれたものの考え方しかできなかったこと、家で寂しい思いをしてきたこと等が原因となって、もう一度ああはなるまいという意味で子どもに厳しく接してきたことも確かにわかります。

それが母なりの愛情表現だったのだろうなとも思います。

だから、きっとあれは私の身を案じて言っていたのだろうなということがわかることに関しては『ただ、表現方法がまずかったな』ということで、処理をするようにはしています。

 

ただ、それとは別にどうも母は、娘の力を低く見積もったり、できないことを小馬鹿にするような態度も多く見受けられ、それに関しては前述の「娘の為を思ってやったことが、表現方法がまずかっただけ」の図式には、あてはまらないんじゃないか?と感じて仕方ないのです。

 

具体的には、下の記事のようなことですが

tari97.hatenablog.com

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他にも、私が免許を取ったばかりの頃、家の車庫入れに苦戦したことがありました。

何度切り返してもうまくできず、なかなか駐車できない様子を変に思った両親が家から出てきて、父はできない私をなじったりせず「もう少し右に切って」とか、具体的な指示をくれる反面、母は偉そうに「何をしとんねん!」「そんな(ハンドルの)切り方じゃあかんわ!」と私を貶し続け、半分泣きながら家に入ったことがあります。

思い出すと、こういうことがうちではすごく多くて、なぜあそこまで母にこき下ろされる必要があったのか?一体私が母にそこまで何の迷惑をかけたのか?と、思い出すだけでも怒りがわいてきます。

 

これについては「表現方法がまずいだけで、愛はあった」だなんて絶対に思えないし、どうしても母の自分が偉い、自分の方が優れているという自己顕示のためだけに、こき下ろされた気がしてならないのです。

母は今になって「威張りたかった訳ではない」という発言もしていますが私にはどうしても威張りたいだけだったとしか思えないのです。

 

あれを母がもし「家族だからこその愛があってやったこと」とでも言うならば、そんな種類の愛なんて私は一切要りません。

 

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