阪神・淡路大震災から明後日で27年です。
当時私は小学生。被災地にあたるものの被害は軽く、周りに家族を亡くしたり家を失くした子もいませんでした。
電気やガスは早くに復旧したし、近所のスーパーで食料品や飲み物も普通に買えていましたが、結構長い間断水が続いて給水車に並んでポリタンクに水を入れてもらわなければならず、それが大変でした。
そんな震災後のある休みの日、私は1階の和室でお菓子を食べていました。
惣菜やら菓子パンやらお菓子を母はいつもあほみたいに買ってくる割に
その時は好きなおやつが全くなくて、母が職場でもらってきたお菓子を食べていたんです。
すると母がやってきて和室の戸の前で立ち止まり、じっと私を見ています。
あー…多分これ何か言われるやろな…
母がブチ切れる前兆は何となくわかりました。
わざととぼけて『何?どしたん?』と聞くと案の定。
「アンタなあ!そんなもんボリボリ食べとるけど家の食糧なくなったらどないするつもりやねん!!!」
またです。何か地雷を踏んだようです。
一応言っておくとそのお菓子は母が年末に職場に届いたお歳暮を分けてもらってきたもので、1月の中旬になっても誰も手をつけていませんでした。
母も食べないし、誰かに食べるなと言われてた訳でもないです。
それに私は今の大変な状況を理解していたので、お菓子ほしいとかあれ買ってきてとか、ワガママなど一切言ってませんでした(言ってまたキレられても嫌ですから)
『このお菓子あんまり美味しくないな…』と思ったけど何も言わず黙って食べてただけです。
あれもずっと不可解で、何ならあんな状況でおやつなんか食べたらアカンかったんかな…とか当時は思っていましたが、母はただ震災のストレスを怒鳴って発散していただけでしょう。
ストレスなんてみんな溜まってましたけど。
母の娘への気持ちの土台には「自分の幼い頃は…」という妬みがあるのだと思います。
どんなにお金を稼いだり、おいしい料理を作ってもその土台にくすぶる気持ちが汚く酷い言葉として表れるのです。
だからああいう、人の脳というか、魂まで傷つけるみたいなきつい言葉やえげつない表現になるんでしょうね。
自由に使えない水道、冷たい水…震災によって母は不自由な暮らしを強いられた幼少期を思い出したんでしょうね。
そんな時に娘がぬくぬくとお菓子なんか食ってやがる!と腹が立つんでしょう。自分はできなかったのに、と。
でもそれが娘を理不尽に怒鳴って良い理由にはなりません。
「不自由な暮らしはさせていない」というのを大義名分に、贅沢や!ワガママや!と怒鳴り、挙げ句の果てに「食糧がなくなる」なんて有り得ない難癖までつけて…
断水以外にも、またいつあの揺れが起きるかわからないという恐怖もありました。
1度結構大きな余震があり、普段ほとんど泣いたりしない私が姉の寝ているベッドに咄嗟にもぐって泣いたこともありました。姉だってまだ高校生でした。
そんな中、頑張ろう!と父も姉も前向きだったし、そんな2人に私も助けられて自分なりに頑張っていましたが、母は「(洗い物の)水が冷たい」とゴネたり
平気で空気をぶっ壊すようなことを言ったりしていました。
娘からまともに相手にされない今の老後は、こういうことが積み重なった結果だろうなと心底思います。
ちなみにその時に食べていたお菓子、贈答品で時々口にしますがいつものごとくあの時の母の怒鳴り声が必ずセットで思い出されます。
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