もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

落ちるとこまで落ちた、その先には

前の記事で、自分を肯定するための手持ちのカードがもうないので、他人を貶して自己肯定する人の心理を書きましたが

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いつもまでもそいういうことをする人と、やめられる人の違いは何か?で終わっていたので続きを書きます。

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結論から言うと「落ちるとこまで落ちた人は気が付く」のではないかなと。

 

前にも書いた、うちと似た毒親育ちのM川さんは今は良き友人として付き合いをさせてもらっていますが

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付き合い初めの頃は言動にモヤッとしたこともありました(この件はすぐに解決して、顛末を上げています)

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M川さん親は物理的に追い詰めてくる系だったので、逃げていた時の話を聞くと確かに想像を絶するものでした。

そのため、最初は私に「あなたの毒親、たいしたことない」みたいなニュアンスがありましたが、毅然とした態度で毒親育ちに重い軽いはないというのを伝えると、それぞれの親を比べてどう、も言わなくなりました。

まだM川さん自身も自分の辛いという気持ちを素直に表現したらダメみたいな、固定観念があったのだと思います。

 

自分よりマシな人を「たいしたことない」=「だから自分はたいしたことある」みたいに持って行こうとする…これも毒親育ちのあるあるで『自分だけが不幸みたいな、そんなこと思っちゃいけないんじゃないか』みたいなの、私もありました。

M川さんを許すことができたのは、指摘には傾聴をし、悪いと思ったことは素直に謝ってくれたからです。

 

そんなこんなで5年ほどの付き合いになって、M川さんも最近私と同じ次元で生きているな~って思ったんです。

お金のことでやたら持論を説いていたのも後になって育ちのせいだろうとわかり、その後はお金のことで、関西弁で言う「ええかっこする」こともなくなりました。

 

この間話をした時『もう誰かにどう思われるか?とか、そんな次元で生きてないよな』となったんです。

 

こう書くと、このフェーズに来てない人はダメみたいに聞こえるかも知れないですがそうではありません。

 

私は毒親との暮らし方や接し方に、正解はないと思っています。

でも、間違いもないんです。ここなんですよね。

自分の出した答えに納得のいっていない人は、ここで何が間違いだの、自分が上だのアンタは下だの、そういう話になります。

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「道」の悪さの現実を受け止められないことは問題ではないです。でも受け止められない自分を擁護するために他人を貶めているとしたらそれはダメです(私は良い・悪いはあまり言わないタイプですが、これだけは強めに悪いと言います)

 

そのフェーズに行くために私が大切だと思うのが「落ちるとこまで一旦落ちてみる」ことだと思っていて、簡単に言えば、諦めて、認めるということです。

何をか。

自分の「道」がろくでもなかったんだなという事実です(ここで言う「道」は育った家庭を指します)

 

ただねぇ…それってなかなかできないです。それをやると今まで親の言いなりで、品行方正に真面目に生きてきた自分の頑張りがあまりにも報われないから。

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でも残念ながらその頑張りって、自分のあのおかしな家庭なり親なりに合わせるための規格だっただけに過ぎないんですよね。

ろくでもない「道」に縋り続けるのって、もうめちゃくちゃしんどい。し、やっても残念ながら結構意味ないんです。

でも、10年前の自分にこれを言ったら、10年前の自分は怒り狂うだろうな。

 

辛いことはたくさんあったけど、私はこの『うちの家、ろくでもなかったんやな…』を認める作業が一番辛かったです。

自分で自分を崖から突き落とすみたいな…そんな感じ。

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でも、ここで落ちるとこまで落ちると、後の人生かなり楽になります。

私の場合は、自分で勝手に考えて自分から落ちに行った感じですけど、依存症とかハラスメント等物理的なことで落ちることとなった人も同じだと考えます。

 

一旦落ちるとこまで落ちた人は、人にも優しくできます。言葉にも嘘がありません。もう自分を取り繕う必要がありませんから。

執着していることにヒントがある

前回の記事で、生まれや育ちにより人生の「道」はある程度決まることを書きました。

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自分の「道」に問題があったことで不幸自慢をしたい訳ではなく、その与えられた「道」をどう歩んで行くか?がつまりこれからの生き方であると考えます。

 

最近、この「道」に問題があったであろう育ちの人が、いわゆる一般的に立派とか一人前とか「人並み」に歩むのは実は相当ハードルが高いのではないかと感じています。

そして、その「人並み」に執着し過ぎるあまり、自分の現状を認めることができず、息をするように人を見下したり、マウントを取ったりする人に敏感に気が付くようになりました。

そういう人の多くは、そうすることで自分を「人並み」エリアに持っていこうとしているんですよね。

そこにはかつての自分も、私にモラハラをしてきた元親友Mも含みます。

 

そういう人の多くは、言動にその人が執着していることが表れていて、その執着していることこそがコンプレックスなんだと思います。

 

私は何度も書いているように職歴にコンプレックスがあります。

働いてきた企業の規模とか待遇とかそんなことはどうでも良いので、もう少し丁寧な書き方をすると仕事に関する選択すらも親の言いなりになってきたことにコンプレックスがあるのです。

 

母のコネで就職した自分も、その会社の社風も大嫌いでした。でも辞める勇気もなく気を病みながら通勤する毎日。

当時私は労働条件の悪い人や非正規の人にエアリプでマウントを取るようなことをしょっちゅうやっていました。内容としては、ボーナスのことを書くとか、有休取得率の高さを自慢するとか。

自分の現状と気持ちのギャップに向き合いたくないので、それで気を紛らわせていたのです。

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自分というアイデンティティを確立するためにコンプレックスに感じる部分を人を下に見ることで埋めようとしていたのです。

 

私は元々、恋愛や結婚・出産に興味がなかったけど、その分「働くこと」が私の「生きること」の多くを占めてきました。だから、仕事関係に自分の意思を持って行動できなかったことに今でもすごく後悔があります。

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SNSでの発信程度なら、誰かを直接傷付けてないし別に悪いことではないけど、それをやってて満たされたか?と考えたら惨めなだけでした。

人って怖いものでそれでも足りなくなると今度は本当に対人でそういうことを言ったりするようになるんです。私は、その頃たまたま求職中だった友人に『はよ働きやw』と小馬鹿にするように言ったことがあります(最低ですね)

よくわからないことでキレたり、私をやたらと貶したり、いわゆるモラハラをしていたMも同じような心理状態だったんでしょう。

 

かつてはそんな私でしたが、いつの頃からかパッタリそういうことをしなくなりました。

なぜ、いつまでもやり続けている人と、そういうことが無意味なんじゃないかと、ふと気付く時がある人がいるのか。

 

自分なりに考えてみたので続きをまた書きます。

 

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自己肯定は他者を否定してするものではない

健全な家庭で育った人はそもそも「自己肯定感とは何か」そんなことすら考えず生きてきてるんだなというのは、暖かい家庭で育った人との付き合いで学びました。

 

人生を長い「道」として考えた時、そういう人を見ていると『生まれた時からしっかりしていて、おかしな障害物もない、太い道が用意されているんだ』と感じます。

一方、不健全な家庭で育った私は残念ながらその「道」がハナから「ゼロより下、むしろマイナスな状態」にあるんだと思います。

 

家を出る少し前、母を●すための方法を本気で考えた瞬間にこのままでは誰かが病院送りになるか、警察沙汰になると思い、逃げるという気持ちのスイッチが入りました。

しかしそんな状態になっても、私はまだ自分の「道」がどうしようもなく、既に自分自身もぬかるみにはまり沈みかけているだなんて思ってもいませんでした。いや、もうずっと前から気が付いていたけど、認めたくなかったのだと思います。

 

この状態で無理やり自分を騙し強行突破すると、自分を肯定できる手持ちのカードがもうないので今度は人を否定することで『道は険しくない』『沈んでもいない』と思おうとするんです。

これが人を貶したり、マウントを取ることに繋がるのだと思っています。

 

最近ではSNSで承認欲求を満たそうとするのもちょっと度を越していますが、本当に自己肯定感が高く生まれながらに輝いている人と、承認欲求を満たそうと無理して演じてる人の見分けは、大体つきます。

何かをできない・やらない人を不完全な人間かのように貶すとか、特別そのような言い回しがなくてもそういうオーラが出ている人。

 

私の場合は仲良し母娘を演じることで家族円満に見せようとしていたし、嫌々コネ入社した会社にいる自分をどうしても好きになれず、その時たまたま働いてなかった友達を貶したり…本当にしていました。

自分1人でSNSのいいね集めをする程度なら誰の迷惑にもならないのでご自由にですが、自分の道を他人を貶してまで肯定しないとだめな状態なら、精神面での根本的な改善の必要があるんじゃないかな。

 

SNS穿った見方しすぎwと思われるかも知れないけど、自分にも他者を否定し見下げて『自分はマシだ』と思おうとする片鱗が確かにあったし、人を貶める昔の自分を見ているようでもあるので、戒めの意味も込めて書いています。

また、同じことをモラハラという形で一番の親友にされたこともあるからこそ、分かることがあります。

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『人より劣った道しか用意されなかった』というのを人生の節目節目で感じることは、非常に惨めで苦しい事です。

だから、冒頭に書いた健全な家庭で育ち「まともな道」を生まれながらに持っている人が今でも喉から手が出るほど羨ましいけど、この『羨ましい』という気持ちすら長らく認めることができませんでした。

認めてしまうと、自分の育った家や人生を丸ごと否定するように感じたからです。

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家を出て数年後、もうどうしようもなくなった時に素直に『こりゃだめだ』と降参をすると、その後の人生が変わると私は身をもって感じました。

自分の家庭の不完全さや、自分にないものを認めるのは辛いけど、私は気が付けてよかったと今は思っています。

 

最近、直接関わりはないけど、SNSでの言動で『この人昔の自分みたい』と感じる人の共通項が見えてきたので、うまくまとめられたら書きたいと思っています。

 

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