毒親から精神的に離れた後でも全く関係ないところで罪悪感を感じやすい人も多いと思います。
自己肯定感の低さも手伝っているかも知れませんね。
私も罪悪感とまで行かないにしても何事においても『これで良かったのかな』とか『自分は間違えてないかな』という不安に駆られることが多々あります。
人よりも「気にしぃ」なのは小さい頃からわかってはいましたが『私がダメなんじゃないか』とかいう類の罪悪感に関しては母の人格を強く否定するような怒り方・言葉遣いが原因だと思っています。
何でも毒親に繋げるのもなぁとも思うのですが、人生の中でそこまで影響を受けた大人が、他に心当たりがないので…
巧妙な手口で罪悪感を植え付けるのも毒親の得意分野ですしね。
私には子どもはいませんが、たまにSNSで子育て関係の投稿を見たりします。
これは母の子育てのこういうところが良くなかったのではないかというのを少しでも見つけ出したいから。
『母のああいうやり方がアカンかったんちゃうかな』とわかると、自分が生きる上で苦しむ元になったことが少し見えてくる気がします。
そういう中で特に思うことが多いのが子どもへのしつけや叱り方についてです。
子どもを叱る時は「人」に対して怒るのではなく「起きた事象」に対し叱るべきということが書かれていました。
例えば子どもが車道に飛び出しそうになり危ない!という経験をしたら「危ないってわからないの?バカ!」「あんたはそそっかしいから!」など子どもに対して言ってしまいがちです。
親も人間なので驚いて咄嗟にそういう言葉が出るのも仕方ないことです。
けれど、少し落ち着いてからでもいいので「 " 車道に飛び出したこと " に叱ったのだ」という問題の切り分けを行うのが大切だとありました。
…一番毒母ができなかったことです…。
これは職場でも言えることですね。
私が母のコネで入った会社では経理の部長がめちゃくちゃ陰湿な嫌な人で何時間も自分のデスクの隣に部下を立たせてネチネチ説教して怒っていましたが、そばで聞いていても『だから、彼のやったことの何が悪くてどうしたらいいかをさっさと言えよ』とずっと思っていました。
「お前はなぁこういうとこが駄目なんや。わかるか?」「お前は」「お前は」…
そうやって言われ続け、部下は精神を病んで休職し、経験のある人を中途採用したものの、その部長がまた同じことをやって、2人目もうつ病で休職しました。
(私はHSPのせいでその部長の嫌味が仕事中ずっと耳に入るのも本当に嫌だったし、精神を病む人が次々と出ても「またか」みたいに淡々と扱われていたので、その件も『この会社、自分には無理かも』と思ったきっかけの1つでした)
要するに、そうやって人格を否定することは「叱る」の本質を得ていないと思うんです。
もちろん、母もです。
こんなこと、頭で考えたらわかるのですが…
それが親だったり配偶者だったり上司だったり物理的に逆らえない相手だと『そうなのかな』と思ってしまうものです。
そう思う方が穏便に済むからというのもあるかも知れません。
罪悪感に関してもうひとつ感じたことは
私はモラ気質の元親友Mとのこともよくブログで紹介しています。
Mと縁が切れた時、私がSNSに彼女とわかるようなニュアンスで彼女に対するクレームを書き込んだこともその原因の1つでした。
最近、ブログを書く上でMのモラ気質だったところを詳細に書いています。
そんな時『もしかして、私またあの時と同じことをやっているんじゃないか』と思うことが罪悪感に似た感情になっていたのですが、これもある種の切り分けができていなかったことが原因かと思います。
彼女と喧嘩した時にSNSに書いたのは『本人が見たら見たでちょうどいいわ』『調子に乗り過ぎや。お灸据えたろ』という気が確かにありました。
彼女は投稿を見て激怒したので、ある意味私の思惑通りになった訳です。
その後、何年もかけて彼女とのことを思い出し「友達の中のモラ代表」のようにこのブログでは触れていますが、結局彼女のことをまた晒し上げてるだけなのかなぁという気持ちが抜けませんでした。
けれど今ブログに書いているのは、実際に起きた事実を元に書き起こしてそれに対する私の意見を述べているだけなのでまさに「起きた物事」に対し、否定をしたり意見を述べているだけなのだなぁと考えれば幾分気持ちは楽になりました。
そう言えば、職場で注意されても「起きた事象」に対して注意されたのに、自分の全人格を否定されたような気分になっていたのも似たようなことかなと思います。
この、対「人」と、対「物事」との切り分け、私もまだまだ大きな課題になりそうです。
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