もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

アクセルを踏み続けた結果

母の実姉のT子(私の伯母。現在施設暮らし)には一人娘のサヨがいました。

2010年、サヨは脳卒中で突然倒れて亡くなりました。

当時まだ30代後半、子どもも産まれたばかりでした。

 

その頃私は既に母との関係に悩んでいましたが母のことを毒親とは思っていませんでした(毒親という言葉も多分まだ知らなかった)

パワハラ上司のいた職場を辞めた後、地元の小さな塗装会社の事務バイトに行っていて気楽ではありましたが全くお金にならなくてすぐに辞め、その後入社した町工場みたいな所も数ヶ月で辞めたい…と思っていて、サヨが亡くなったのはそんな時でした。

 

当時私は『自分のやりたいことをやって生きる!』に一番躍起になっていた時で、欲しいものは大体買うし行きたい所には大体行っていました。

当時を例えると、常に母に無理矢理アクセルを踏まさせられるので、それよりも更にアクセルを踏み込んで(アイドルと買い物依存)勢いをつけるみたいな生活をしていたなと感じます。

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1人になったT子のサポートをこれからみんなでやろうという話になり(T子の夫はもっと前に亡くなっている)母に「たり、今の仕事は辞めてもええから、サポートに徹して」と言われました。

その時は大義名分で町工場を辞められるのでラッキー♪と思ったし、実際T子の引っ越しや生活が落ち着くまでのサポートは姉も私もよくやったと思います。

仕事探しもしていましたが、リーマンショック後で求人もなく『これからどうするか…』と考えていたところ、ほどなくして母の会社の総務課の子が結婚で辞めるからその席に私を置く母の作戦が始まったのでした。

 

母の会社は福利厚生などきちんとしていることは知っていたけど働きたいとは思いませんでした。

それにまだ、パワハラの件で働きに出るのにも恐怖心がありました。

この時にもっと休むべきだったなと今となっては思います。

まあこれも結果論だし、まず家にあの母がいる時点で心を完全に休めることはできなかったでしょうけど。

 

母の会社に入ったことが一番の失敗だと思っていましたが、それよりも問題だったのは『気が済むまで休んで、その後のことも自分で決めたい』という自分の考えを無視したことだったのだなと思います。

 

こういう、母に何かを言われる方が面倒で自分の素直な気持ちを無視したことは、人生で数え切れないほどあります。それがとにかく悔しいのです。

嫌って言ってもどうせ母がキレるし『じゃあ母さんの会社より立派なとこの求人探してきてみろ!』こう頭ごなしに怒鳴られるのがオチです。

基本的に何をするにもこういう風に「どうせ…」と思うので、もう反発する気力すら当時はありませんでした。

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まさに、毒親育ちみんながみんな親に楯突いて、啖呵を切って家を出たり反発ができる訳ではないことの本質がここに詰まってる気がします。

もう、今さらちょっとやそっと反発してみたところで何になる?みたいな無気力さからはそう簡単には抜けられないんですよね。

 

仕事は生活に関わることなので、全然「ちょっとやそっと」ではないんですけど、毒親と暮らすと自分にとってちょっとやそっとのことか、そうでないかの判断が完全に狂ってしまうんです。

「母に何も言われず穏便に暮らすこと」が生活の上での最重要項目になっているので、結果的に自分の本当の気持ちはほぼ全て無視することになってしまうのです。

 

サヨの死を目の当たりにして『簡単に人は死ぬんだ。明日は我が身かも』と思うといても立ってもいられない気分で『できていないことをやらなくちゃ!もっと…もっと…!』と焦燥感に襲われました。

その結果アクセルを余計に踏むことになってしまい、オーバーヒートを起こすまでアクセルを踏むのを私はやめることができませんでした。

一言で表せば「ヤケクソ」でした。

 

結局、私に本当に必要だったのはブレーキの方だったんだと気が付いたのはそれから7年も経ってからのことでした。

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はっきり言うことができた

私は昔から母に「ワガママ」とか「頑固」など散々、面倒な性格!と貶されてきたのですっかりそれを信じていましたが、人と付き合う上で我を通すとか本当にしないし

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嫌なことははっきり嫌と言うとか本来自己主張すべき場面でもそういうことがうまくできないから人にも舐められてきたのだなということには母と離れて初めて気が付きました。

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職場でもパワハラに遭ったり、モラ気質の友達に引っかかっては嫌な思いをしてきたことも、他人から必要以上にイジられてきたこともたくさんあります。

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もちろんそういうことをする相手が一番良くないんでしょうけど、自分も努力しないといつまでもそういう扱いを受けると思い、引っかかったことは曖昧にせず相手に伝える訓練をしているところです。

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前に時間を守らないマルさんの話を書きましたが

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私が誘いを断ることはそうないので、さすがに申し訳ないと思ったのかあの日のことを弁解させてとマルさんから電話がありました。

 

あの日、結局誘いは断りましたが「もう着くで」と電話をかけて来たのはマルさんと共通の友人のWでした。

マルさんと会う時に都合がつけばWも来ることがよくあるので、あの日も前もってWも来れるかな?という話をしていましたがマルさん曰く今日はWは家の用事があるから無理らしいとのことでした。

なのに何でWから電話がかかってくるの?と思ったら、私を迎えに行く前にWと落ち合えたから一緒に来たとのことでした。

そこから「Wが家の用事済ませてから行くとか言うからそれを待ってて遅くなってん」とマルさんの言い訳が始まりました。

日中「今日は無理」と言っていたW、用事が済んだら行けると言われたので待っていたけど夜になってもなかなか来ない。そのWを拾ってからたりの家に向かったので、あの時間になった、と。

以下その時の会話。

たり『じゃあWと先に落ち合うから遅くなるってのを連絡しようとは考えへんかったん?』

マル「いや、俺も言ったよ。たりが待ってるからって。でもWがまあええやんって言うから…」

たり『連絡せんかったのはマルさんの判断やから…言い訳やんな』

(しようと思っても、実際しなかったらしていないに等しい)

たり『たりは待たせといたらいいか!って気が2人ともにあったんじゃない?』

 

マルさんは、たりに断られたのがまるで俺のせいみたいやったからさ!と言うのですが…話の論点がずれていますよね。

私はマルさんとW、どちらが悪いの話をしたいんじゃないんです。

準備してた私の気持ちや都合を全く考えてないのが問題ということを伝えたいのです。

 

『そういうやり取りがあったことはわかった。けど、今聞いたの全部言い訳でしかないよな。言葉は悪いけど』

まさに、私が昔から思っても言えなかった「知らんがな」です。

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最初は結構言い返していたマルさんでしたが、最後はそやな…言い訳やな…と言葉少なでした。

 

多分今までの私だったら『じゃあ仕方ないね』と言って、何となくその場に居ないWが悪者になって…という流れだったでしょう。

もっともらしく言われてしまうと、相手の言い分に筋が通ってるか?単なる言い訳ではないのか?そういうことを考える前に『そっか』と呑まれてしまう人生を長く過ごしてきました。

そうやって麻痺させないと母とは暮らせなかったし、釈然としない…納得できない…そんな気持ちをあの家で感じていたらきりがなかったですし。

でもそれではあまりにも苦しいし、自分がかわいそう。

そう思うようになったから、勇気を出して思ったことは述べる練習をしています。

本当はもっと『相手が怒るかな?』とか、ビクビクせず言えるのが理想なのですが

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ここまで言えるようになっただけでも私にとっては大進歩だと思います。

 

スター・コメント励みになります。ありがとうございます。

「変わる」ということ

何度かブログに登場したコウさん。不動産会社に勤めていた時の同僚で、ちょうど干支が私の1周上です。

昔の話を聞くとなかなか破天荒で楽しく、コウさんとの話は色々と心に残っています。

 

『一人暮らしお試し期間』と謳ってアパートを契約し、その数か月後に家を出られたのもコウさんのおかげ。

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もちろん不動産関係の物理的な面でもお世話になったけど、コウさんには精神的に助けられたことがたくさんあります。

あるコウさんの一言がきっかけで家を出る決意をしたことも前に書きました。

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コウさんは若い頃、馬が好きだから競馬場のそばで暮らしたことがあったと当時語っていて、馬好きの友人たちには近所で羨ましいとよく言われ、それだけで毎日楽しく過ごせたそうです。

聞く人が聞けばバカにするかも知れないけど、生きて行く上でそういうことって大切なんだなぁ…と思っていました。

結局、私がそういうことに気がついて実践できるようになったのはつい最近のことですが。

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そんなコウさんに私は当時横浜のとある街に住みたいとずっと話していました。

そこは好きな芸能人の実家のある場所で、別に遭遇を狙ったりもする気もなく、とにかく好きな人がどんなとこで育ったのか?を肌で感じたかったんです。

まあでも遠すぎて現実味がないし、第一仕事や結婚など母が納得するような理由がないのに家を出られるはずがなく、毎日悶々と暮らしていました(まあ、実際仕事や結婚でも自分のそばから離れることは母は許さなかったと思いますが)

私はその悶々とした気持ちを『横浜に住めないからだ』と思っていましたが、今思えば母と暮らしていることが一番の原因だったんですよね。

当時はそれをわかっていなかったのか、わかっているけど認めたくなかったのか。

今の生活を変えたいと思う反面、変わることを拒んでいるのもまた、自分自身でした。

あの家で暮らすにあたり変わるということは母から攻撃されることに等しいからです。

 

考えてみると、その頃の私は根本的に何とかすべきこと(毒母ととりあえず距離を置くこと)と、夢や理想という『こうなったらいいな』というプラスαの部分(好きな場所に住むこと)がごちゃごちゃになっていたな、と思います。

 

当時、横浜に住みたいということをコウさんにうだうだ話していると「たりがどこに住んでも同じやと思うけどなあ…」と言われたことがあります。

 

家を出る選択がなかなかできない私を責める人や「嫌なら出たらええやん」と吐き捨てる人もいる中

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コウさんはその一言だけをぼそっと言ったきりでしたが、私はそれがずっと記憶に残っていました。

 

多分「たり自身が変わる気がないとどこに住もうがあんまり大差ないよ」ということを言いたかったのだと思います。

確かに物理的距離を取ることは毒親問題においては有効です。

ただ、精神的な支配からは物理的距離をとってもなかなか抜けることができないのは私もたくさん失敗をしないとわかりませんでした。

『住んでる場所さえ変えれば、今の自分を変えられる』私はそう思っていたけど、あの一言は「現状の不満から抜け出すにはまず何をすればいいと思う?」という、コウさんなりの問いかけだったのかもしれません。

 

あなたの夢は?ともし聞かれたとしたら当時の私は『母と離れること』でした。

でもそんなことを夢だとか理想と考えてることが虚しすぎるから表向きを『横浜に住むこと』でごまかしていた、そんな気がします。

誰だって親と離れることが夢です!なんて言いたくないですから。

でも、私にとって母と離れることは夢とか理想以前に必須項目だったんだと思います。

 

毒親のもと生まれたら「変わる」ということは親への反発に等しく、平和に暮らすためにそれを選択するのが賢明だったか?と問われれば疑問が残るので、ある程度は諦めをつけて行くしか仕方ありません。

実際に離れる・離れないよりも、潜在意識の中で決めつけていることや勘違いしていることが正常な親に育てられた人より格段に多いので、それに気付くことができるか?が鍵だと思います。

私は形から入るタイプなので、まず視界から母の存在を消さないとそれができなかったということです。

 

いろんな思いや考えがこんがらがっている私を、コウさんは見抜いていたのかも知れません。