もう理由なんかなくていいの

毒親との暮らし。離れるまでと離れてからのおはなし。

ごめんなさいが言えなかった理由

小さい頃から『ごめんなさい』が外でなかなか言えない子どもでした。

 

小2の時に友達と小競り合いになり、担任に叱られたことがあります。私は断固として折れず口を尖らせ黙っていました。その態度がよっぽどだったのでしょう。普段声を荒げない担任に「そんなに口尖らせて!」と言われたこともあります。

 

何でそんなに頑固だったのだろうと考えると、家では " 非を認めたら負け " だったからじゃないかなと。この場合の " 負け " は、はすなわち母に長時間説教されることを指します。

 

小3くらいの時、水彩画の授業がありました。机が狭く、筆洗バケツは椅子の下に置くよう指示されました。

私は準備を済ませて座っていましたがふと気を抜いた時、椅子の下のバケツに足が当たり倒れてしまいました。

その瞬間、まだ準備のできていないそそっかしい男子が横を通ったんです。斜め後ろの席の子が「あ!こぼれてる!」と言い、その男子が立ち止まりました。

誰かが「○○くんが当たったんちゃう?」と言うと、先生が「勝手に決めたらあかん」と、事実確認をしました。

私はとぼけて『自分で当たったかな、どうかな』と言っていると、その男子自ら「俺が蹴ったかも…」と言い出し、結局その男子のせいになったことがありました。

確かに日頃からその男子は忘れ物が多かったり落ち着きもなく、その時も最後まで彼だけ準備が終わらずウロウロしていました。そんな中起きたことなのでクラス中が「アイツまたやってる」みたいな雰囲気になり、おそらく彼もやったかやってないかに関わらず、自分のそそっかしさによるミスをそうやって収拾させるのが癖になっていたのだと思います。

普通に考えて、椅子の下のバケツを歩く人が蹴とばす訳ないけど『蹴ったの自分やわ、ごめん』が私はどうしても言えませんでした。

 

無関係な人のせいにしてしまったという後味の悪さはあったけど、こういうごまかしとか逃げが母以外にはすんなり通るんや…と味を占めたのも事実です。

 

それからは先生にも平気で嘘をついたし、叱られて泣いたこともほぼありません。先生に叱られたって、母が家でキレ散らかすのに比べたら屁でもなかったので。

先生にも目上の人にもとにかく謝らない。謝ってたまるか。そんな風に思っていました。

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学生時代はそれでも何とかなりましたが、社会に出てもその感覚が抜けず、仕事でミスをした時に同じ調子でごまかすような態度を取って恥をかきました。

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「ごめんで済んだら警察いらん」という言葉があるけど、母はそれと同じニュアンスのことを幼い娘にも平気で言う親でした。

我が家では「ごめんなさい」には、何の効力もないのです。

 

先生や地区のおばさん等をナメてかかっていたことや、叱られないために友達に罪をなすり付けてでも逃げたりごまかしたこと。確かにほめられたことではないけど、そういうしたたかな幼少期を過ごし、また社会に出ても『すみません』の前に、ヘラヘラ言い訳を並べるような人格が形成されたことは、少なからず「ごめんで済むと思うなよ」と子を脅し、謝ることの大切さ、謝ればわかり合うことができるということを学べない環境を作っていた母にも責任があると思います。

 

私の家では、謝るということは非を認めることであり、非を認めることはすなわち母の説教スイッチをオンにすることに直結していました。

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21時頃から始まる説教の時間は、地獄でした。

手こそ出ないものの、頭痛がするまで泣くほどに詰められ、長い時は深夜まで続きます。生きてきた中で、あんな惨めな気持ちになったことは未だかつてありません。

それを阻止する為には、バカにだってなったし、嘘をつこうがごまかそうが、もう何でもしました。

『安易に非を認めない』『簡単に謝ってはいけない』もおそらくその1つでした。こちらが劣勢になると説教の時間がまたどんどん長くなるからです。

 

『ごめんなさい』が言えなかったのは、幼いながらに編み出した、母の理不尽な説教から逃れるための一種の防衛策だったのだと思います。

 

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